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─── 聞天短編小説劇場 第1幕 ───

防 波 堤
●1980年(昭和55年)文芸同人誌『文海』第4号発表 (原稿用紙50枚)


 白い防波堤の上を少年が歩いていた。風は絶え、空気は微細な塩の粒子につづられてでもいるようだった。防波堤は巾ひろの道ぞいにつらなり、地面からは、上背のあるおとなほどの高さに築かれていた。港の横腹からはじまり、五千人を擁する坑夫長屋のまえあたりでいったん途切れ、ふたたび鉱山事務所の脇から道をはさんで波をさえぎっているコンクリートの壁。
 少年はいま、両の手を水平に伸ぱし、ベた凪ぎの海を横目にすたすたと歩を進める。漁船のリズミカルなエンジン音が海上の空間にまぶされ、潮の香はきつかった。内海のふところに浮かぶ、周囲40キロほどの不等辺三角形をした島だった。島のひとつの突端に、巨大な竪坑の櫓が組まれ、地の底から石炭とともに掘りだされた粘板岩のポタを、玄武岩質の岩礁にぶちまけ積みあげている。防波堤の上を歩く少年の目に、海へせりだす灰色の小山がみえる。ボタ山の頂上へはいあがるトロッコは寸づまりの甲虫に似ていた。 
 少年はたちどまった。首を背後にねじる。
  「あがってこんか、あがりきらんとか」
 いらだたしさのこもった8才にしては鋭角な声だ。
 さい前より少年の進行方向へつき従っていたその弟は、兄の不必要なほどに高い声を、ぼんやり間いて顔をあげる。
 「あがってこい、おもしろかぞ」
 「ぱってん…えすかもん」
 えすかもん、少年は弟の言葉を舌のさきでなぞり、それから吐きとぱす。
 「なんがえすかか。あがってみんか」
 岩壁には寄せては引いていった潮のあとが、刷毛でも使ったような濃淡に印され、巻貝の類いがびっしりと吸着している。石垣のすきまを、出たりはいったりするのは舟虫である。生まれてはじめて海のそぱに生活するふたりの少年にとって、舟虫は気味の悪いゲジゲジそっくりな虫としてしか映らず、最初のうちは姿をみるのもいやだった。
だが、こいつはいたって敏捷だが、臆病で、とるに足らない、ただの節足動物なのだ。この島へ出稼ぎに渡った父を追い、兄弟の母が、おさない妹を背に息子ふたりを叱佗してこの地に足をふみいれてから、すでに4週間が過ぎている。もう少年たちは炎天の真昼、岩壁に群れるチヌのおびただしい影に、頓狂な声をあげることもなくなった。くらげにも刺されたし、舟虫なんかはなんでもなくなっていた。そして、少年たちの夏休みは終わろうとしているのだ。
 全島がおおむね丘陵という島である。
 海へなだれこむ斜面に山畑は段をかさね、椿の古木も多く、山無花果の自生する薮からしぱしぱ鳶が、驚くほどの数、波の上まで滑空するのを目にする。はたして、いま、海面すれすれにとぷ海猫をみおろして、二羽の鳶がゆうゆうと弧を描く夕空だった。ぴいいっと声までが降ってくる。青い影になったM半島の方向に、陽は沈みかけていた。
 パラスをはじき、オート三輪が走り去る。もうもうと埃がたつ。ランニンクシャッからむきだした肩や腕が、うっすらと白くなる。左手斜め前方の空へ横ざまにはりついた雲が、茜いろに染まり、放たれる光芒は少年の身体を、水に棲むもののようにきらきらと飾った。
 防波堤は、ゆく手に突然切れおち、道はそこでほとんど直角に析れて、島の突端を横断する勾配のきつい坂へつながっていた。道の曲りっぱなには、松がみごとな枝を張っている。少年はゆっくりとコンクリートの頂部をたどり、弟は彼をおいて松の根方まで駆けていき、そこからいくらか下ったところにあるちっぱけな入江をながめた。
 「だれもおらんよ」
 弟はふりかえって叫んだ。そして、道から入江へのわずかな段差をとびおり、波うちぎわへ走る。あたりは砂地ではなく、いったいはすべて粘板岩と玄武岩を主とする石の浜である。
 少年は防波堤のはずれに立ち、深ぶかと呼吸した。大気はぬるく塩はゆく、黄昏の淡い味に満ちていた。少年の目はせわしなく動いている。なにかを探すものの、それは落着かないまなざしだ。しかし、このちいさな入江には、彼と彼の弟いがいに、ひとの姿はみあたらない。
 弟は、手ごろな大きさの石をひろい、サイドスローで海にほうっている。石はべた凪ぎの水面をつつっとすぺって、いくつもの波紋をつくった。足もとによせてくるちりめん皺のような波は、たよりなくものうく、消えてまた消え、入り陽に輝いている。
「だれもおらんねえ」
少年は、弟がさきほどと同じ言葉をくりかえすのを、かがみこみながら聞いた。やあっというかけ声とともに、少年は防波堤の上から身を躍らせる。おり立った草場からは、羽虫がいっせいに散った。
「嵐まえの静けさ、ぞ」
坑夫長屋のどこからか流れてくるラジオの台風情報が、少年の耳には残っていたらしい。はじめて過した海辺での暮し、島の晩夏に訪れる嵐は、どのような相貌をそなえているのだろうか。少年の想像とはうらはらに、眼前の海は油をまいたような平面を保ち、風はなお死んでいる。
 数日前の記憶が少年を捉えてはなさない。
いまとまったく同じような夕暮れどき、少年たちは、両親と妹をふくめた家族がそろって潮の引いた波うちぎわを、膝まで水にひたりながらたどったのだった。
母がエプロンの裾をつまんでつくったくぼみに、少年たちは次つぎに青ウニをほうりこむ。青ウニは岩礁のまにまに、ちょうど落ち栗のようにころがっているから、目ざとい少年たちには、かっこうのひろいものだった。
残照に映える海面に、家族の影はゆるゆると移動し、入江の彎曲部から立ちあがる山肌に、玄武岩のみごとな柱状節理に、笑い声はくりかえしぷつかった。
 あの日、少年はひとりの少女をみている。
 朱くふちどられた横顔は、少年より五つ六つ歳上であろうかという印象だった。ベレーに似た帽子を、いくらかかしげてかぷり、岩に腰かけたままの姿勢で水切りをしていた。
「あら、あのお姉さん上手ねえ」
 母はほがらかな声でしゃべった。
 水切りをしていた少女はふとふりかえったが、少年たちの家族へは一瞥をくれただけで、すぐさまむきなおり、あいかわらずの姿勢で海へと石を投げつづけるのだった。
 あたりは剥離した粘板岩の小石がしきつめられたようにあって、すべて薄板状だったから、どれといって選ぶ必要もなく、ひろって投げれぱどの石も、たくさんの波紋をつくりつつ遠くまですペっていくのだ。
 少女の動作は、この単純な行為をかくべつ楽しんでいるというふうでもなく、むしろ機械的ですらあった。ズボンは膝までまくられていて、素足を水にひたし、彼女は太陽を石もて追う、無表情な夜の使いのようだった。
少年の目にとらえられた少女の全体の像が、消えてゆく夕陽を背景に黒ぐろとしたシルエットとして浮かびあがるとき、そのできごとは確かにあったことなのに、どこか実感は薄れてゆくばかりである。
 弟に、入江へいこうと声をかけたのは、もう一度、あの少女をみたかったからにちがいはない。同時に、昨夜からいても立ってもいられない気持ちで、胸がいっぱいになっていたからでもある。というのも、昨日の夕餉どき、少年の父は戸板に寝かされ、汚れた包帯で身体中をぐるぐるまきにされて、出稼ぎ坑夫の長屋へかつぎこまれたからだった。

「子供はうちであずかるけんね、はよう蒲団ぱしいてやらんぱ」
隣家の主婦が、少年の母をささえるようにしていった。
少年は、彼を押しとどめようとするおとなたちの腕をすぱやくくぐって、炭塵にまみれた包帯をとりかえられている素ッ裸の父を目撃した。
「奥さん、炭鉱の病院なベッドの空いとらんとですよ。診療所もいっぱいてゆうけんしょんなか、こらえちくんない。旦那さんの傷はみかけよいか軽かですもんね。明日も先生にきてもらうごとしちょるけん、いっちょたのみます」
いうだけいって男は、医師と看護婦をうながし、長屋の外にでる。組頭の弟分とかいうその男の、せかせかした口調が長屋のひとすみにぼおっとゆれ残った。
集まった人びとの耳に、女の子のすさまじい泣き声がとびこむ。少年の妹なのだった。まだ三つになったぱかリなのに、その場の雰囲気を敏感にさとったらしい。
 隣家の主婦は、汚れた割烹着の胸に少年の妹をひきよせ、自分まで目をうるませている。泣き声はますます高く、どこまでも自己を主張してやまないうるささに満ちていた。
 少年は泣くまいと必死に耐えていた。
 父の紫いろになった顔と、身体についた赤痣が、目蓋の底に消えさらない。しかし、泣いてはいけないとこらえている。
長屋の子供たちは、おとなたちに混じって、ロぐちになにごとかしゃぺりあっているし少年としては、彼らのまえに泣き顔をさらすことは、なんとしてもできなかったのである。
 戦後ずっと働いていた鉱山を、放逐された少年の父。その父を追って出稼ぎ先の島へ渡った少年たちにとり、周囲の人間は簡単に気を許せる存在とはなりえていない。子供どうし罪のない遊びに興じても、どこかしらちがうという感情は、ひと月たってもぬぐいがたいものだった。お互いに張りあわねばならない場面もある。それは、おとなだろうと子供だろうとかわることはない。
少年は唇をかみしめる。
 薄っぺらなペニヤ板いちまいで仕切られた六畳間に、父は低くうめきながら横たわる。膝もとの母は言葉もない。子供たちは、そんな両親に対応するどのようなすべも知らないのだ。
 こうして、少年ふたりは、鉱夫長屋から歩いても20分ほどの、忘れられたような入江へ、やってきたというわけである。
 ふたりは、息を切らせるまで石を投げつづけた。残照があたりを赤く染め、ふたりの投げつづける石は、陽のただなかへ消えこんでしまう。あいかわらず風はないのだった。

 U市からの定期船がたちよる岩壁に、漁船がとぽけた機関音とともに近づき、桟橋にならんだ。とれたての魚を、坑夫の家族へ売りにきたのである。ぬらっと動いている蛸や、ぴちびち跳ねまわる鰯が、無造作に手づかみされ、女たちが持ってきたボールだの笊だのに納まった。
 ひとときにぎわう岩壁を、黄昏が急速につつむ。群青の海面に、遠いU市の灯火が映った。
  出稼ぎ坑夫の長屋は、炊事の喧噪で火事場さながらの騒ぎである。気重い足どりで帰った少年たちに、カワハギの内臓をとりだしていた母は、ゆるくほどけるように笑いかけた。
「どこさ、いっとったね?」
「海べた」
「あんたたちは、まだよう泳ぎきらんやろうが、波にさらわれんごとせんぱ」
「波なんかたっとらん」
 母はしゃがんだまま、共同炊事場の大俎板にのった小皿を、少年のほうへさしだした。カワハギの肝臓である。緑がかった黒の、それはちっぼけなかたまりだが、魚のはらわたから分離されたぱかりで、白熱電球の下、ぬめりをおぴて光り、鼻を近づけなくとも生ぐさくにおっている。
 つまんで口にほうりこみ、いっ気に飲み下す。この要領を知らなくて、ひどいめにあったことが少年にはある。
「カワハギの肝油よ、身体によかけん飲んでんしゃい」
 はじめて暗緑色の異物をすすめられたとき、少年はさすがに尻ごみした。島へきて、ほどなくのことだ。こわごわのぞきこむ弟をかたわらに、思いきって口にいれた。
 歯と舌に触れる。考えるまもなく噛みつぷしたら、口いっぱいに苦みがひろがった。なんという苦さだったろう。首をまえにつきだす動作で、喉の奥へとかたまりを飲みこんだ。顔は情ないほどゆがんでいた。
「噛んだらいかんよ、すぐ飲みこまんぱ」
 あのとき、母は弟のほうへも小皿をつきだした。むろん弟は兄の渋面を目にしているので、手をだすはずがなく、とびあがるようにして後ずさった。まわりにいた主婦たちがどっと笑った。
 日びの苦みにつながる、カワハギの肝厳の苦み。島で暮すようになってからというものくる日もくる日もカワハギの煮つけぱかり喰わされている。この白身魚の淡白さは、最初のうちこそけっこううまいと思われた。それでもこう毎日ではやりきれない。もうカワハギの煮つけなどみたくもなかった。それなのに母は、アルマイトの鍋にカワハギを家族の頭数だけならぺ、醤油をたらしている。
 どうして自分の家では他の家のように、でっかいガザミやサザエをたべられないのか、海は目のまえにあるのに、考えれぱ不自然な話だった。七輪にかけられた鍋から、醤油の泡だつにおいがする。夕餉の膳へあえかに抱いた期侍も、おちょぼ口のひらたい魚との対面とあっては、かすみと消えざるをえない。
 ほどなく、坑夫長屋はそれぞれの家族ごとに夕食の膳をかこみ、にぎやかなやりとり、子供のはしやぐ声、赤ン坊の泣く声などにさんざめく。
 そまつな膳にならぺられた茶碗や皿が、磁器の硬質な輝きをはなって、むっとする暑気のうちに、それのみひんやりとあることを、少年は瞳の底にすえてじっとしていた。
 母の背後で、蒲団にあおむけとなった父がかすかに動いている。わずかな時間で、頬が削げたようにみえる。
 50ちかいというのに黒ぐろとした髪から、汗と脂が枕にべっとりにじんでいた。
鶏卵をときほぐして、粥とまぜたものを、母が匙ですくって飲ませようとしたが、
「おれはいい。あれどもに、喰わせてやれ]
 弱い声で、そういった父である。
 食欲がないのだ。言葉は四囲の板壁にあたって、ほろほろ畳に落ちた。
 誰も教えてくれない正体不明の敵に、少年は想像しうるかぎりの打撃をあたえたかったのだが。
 長屋はぺらぺらの板づくりで、2棟がひとつ屋根の下にならぷ。あいなかの平土間は通路も兼ね、共同水道が中央に設置されている。ふたつの棟に寝起きするのは20家族。各部屋と土間とのさかいには、引戸いちまいあるきりだ。部屋と部屋とのあいだは、ベニヤ板で仕切られているのみ。おまけに天井はふきぬけだ。ちょっとした騒ぎも他人の耳に届く。三番方の坑夫が寝ているときなど、子供たちとしては外で遊ぶほかない。まして少年の父は傷を負い床についているのである。炊事の音、タ食を囲むなごやかな声ごえ、それらの明るい音いろからとり残されたように、少年の家族はひっそりつましい食事をとった。
 口のはたに、ごはんつぶをいっぱいつけて、ふくらんだ頬をもごもごさせていた妹が、茶椀をすべらせ、ビー玉のような目をみひらく。黄いろい、縁なしの、くたびれた畳に、魚の煮汁がかかって茶っぽくなっている飯が、逆さになった椀の下にべちゃっとこぼれた。子猫の絵がついた合成樹脂の茶椀は、妹が両親にねだって買ってもらったもの。蒼い瞳をした絵柄の子猫は、すまし顔でひっくりかえっている。
 母はいっしゅん叱ろうとしたが、なぜかためらった。自分の箸で、こぼれた飯を妹の椀にもどしはじめる。兄弟はうわ目づかいに母の動作を見守る。妹は匙をくわえたまま所在なさそうだ。
 煮汁のかかった飯は、なかなかうまく箸にのらない。箸のさきがふるえている。背をかがめた母の頭には、赤茶けた髪がもわっとある。分けめが雷燈の光に白く筋のように浮いている。
 畳にこばれたのは母の涙だった。
 少年の耳には、それが、ぼたっぽたっという常ならない音に聴こえた。母は部屋の暗がりに顔をむけ、子供たちからはみえない角度でエプロンのはしを両の目にあてた。
三人の子をなした女として母として、この場から逃げるわけにはいかない。白分には現在の家庭しかよって立つところはないと決めていた。里からは、夫と縁を切って子供をつれ、帰ってくるよう再三いってきていた。しかし、その気があったのなら、長男が生まれた歳に全国に吹き荒れたパージの嵐のさなか、朽ちてゆく鉱山にとどまることもなかっただろう。こうして、出稼ぎの夫を追い、子供らの手をひいて海を渡ることもなかっただろう。
─行ってもいいぞ、こうなっては・・・・・・。おれもおまえたちをひきとめられん。− 
 明治生まれの男として、せいいっぱいの衿持がいわせた言葉の裏には、熱い願いがあると感じた。それだからこそ、
─なんばいいよるとね、いまさら。気ばしっかい持たんと、ようなる傷もようならんよ。─
そう応えて笑みかえしもしたのだ。
 首切り、抗議デモ、解雇撤回闘争、裁判、パージ容認の判決、失対事業、土方、出稼ぎさきでの事故、……ひとしなみの生活はいったいどこにあったのか。
ふいに我にかえって顔をあげた。三人の子供たちが自分にそそぐ視線の必死さ。らちもない親の感慨にとらわれているひまはない。
「こぼさんごと、たべんばよ」
釜の底にこびりついていた飯を、杓文字でかきとり、赤い椀にもりつけてだしてやる。もう涙のあとさえみせない母の顔だった。少年は安堵し、かたわらの弟に目をやる。やはり弟も胸をなでおろしているのか類がゆるんでいる。妹はおさないとまどいをみせながらも、こっくうなづいてたべはじめた。少年も、高菜つけをしゃりっしゃりっと噛む。丈夫な歯をしているのだ。夜が深まってゆく。
島の夜、海辺の深まりゆく夜、暑気はつのり、食事のあとかたづけがおわり、寝茣座がいっばいにしかれた部屋に家族が横になる。蚊帳の外にころがりでた少年の脚を蚊が容赦なく喰い、あけはなしてある縁の外では螻蛄がしりに鳴いている。海は底なしに沈んでゆく夜の黒に、夜光虫のあやしい光をそえて沈黙している。坑夫長屋の瓦屋根に、出稼ぎ坑夫長屋のトタン屋根に、うつろうのはまぱらな星あかりだ。いくらか雲がでてきたらしい。
 街燈に集まる、大きさもまちまちな蛾やうんかのたぐいか、電柱のぷーんといううなりのなかで、もの狂おしいほどに乱舞している。コールタールをたっぷり塗られた木製電柱は、生命あるもののように変化して、老兵さながら、律義に闇をささえている。
 ひとくせある節回しにうたいすてられた唄、幕のおりた痴話げんか、橙いろにともる数個の電球、平士間に投げだされた安全靴。
 本鉱員の家族が住む長屋とちがって、出稼坑夫の長屋にはどこかしら濃密な空気がよどみ、土間の中央を占める共同水道のあたりには、泥蟹がのこのこ夜の散歩をしていた。
「きょうは、いくにちだ・・・・・・?」
ひろげた本のぺ−ジに、とばされてきた砂がこばれるような、ひからびた声だった。
「もう20日になったねえ」
「20日か…なら、おれはまるふつか寝とるのか」
「心配はいらんとよ、ぐっすい寝とけば。骨やすめたいね」
「ボタが降りよるから、誰も行こうとせんのだ。おれは見込まれてきたのだから、手をみせねばならん…盤圧がかかっとってな」
「戸板にのってきたときは、もうこれはダメかと思うたよ。ばってん、生命のあっただけでんよか」
 低く、どこまでもくぐもった声が、少年の耳をきれぎれにかすめてゆく。六畳いっぱいに吊るされた蚊帳のなか、父と母の、互いの胸のコップに水を満たしあうかのような会話だった。
 少年はふたたび、深くからの安堵にたぐられる。全身が黄緑いろに透き通ったウマオイが、どこから迷いこんできたのか、戸袋のきわに、翡翠細工のようにとまっている。
─みんな、どうしてるかな。
 少年は、S乎野のただなかにある田園と炭坑が共存する町を、夢うつつに想い描く。蛇行するクリークにそい、どこまでも駆ける少年、友だち、青をびひとなぎする涼風。標高450メートルのA岳が、山裾にボク山の灰いろをした三角形を這わせて、学校掃りの道にゆたかな山容をみせていた。
─島に行くてやろ?
─うん、とうちゃんがもう行っとるけん、うちはぜんぷして行くと。
─よかなあ。海の近くやろか?
─海は社宅のすぐまえにある、て。
─よかな・あ。ぱってん、わいまだ泳ぎきらんやろうが?
─うん、まだ。
 ビー玉を地面にころがしながら、友だちが白っぽい表情になっていったのはなぜだろう。
─わいだち、どっからきたとや?
 共同風呂の方形の浴槽で、少年と弟はたくさんの子供たちから詰問されていた。
─汽車にのってトンネルみっつくぐって、そいから船にのって、きた。
 まわりを囲む陽焼けした子供たちは、少年の返事に対し、てんでに自分の思ったことをわめきあった。突然、なかのひとりが、
─わかった、わいだちカンモントンネルぱくぐってきたとやろうが?
あまりに断定的ないい方だっただけに、少年はついうなづいてしまった。感心したような吐息がもれる。
─おかしいぞ。
 年かさなのが疑問を口にした。
─カンモントンネル通ってきたんなら、おれだちと言葉ちがうはずやろう。あがん遠かとこからいちんちでここまでこられるわけなかぞ。
 わいだち、嘘いいよろうが、子供たちの目がひとつになって迫る。
─ちがう、長かトンネルぱくぐってきた。
─なあんか、わいだちカンモントンネルなんか通ってきとらんやろうが!
 他人の隙をのがさない、子供らしい残酷な目がいっせいに生きいきしてくる。
─長かトンネルぱくぐってきたていいよろうが!
 少年は、自分と弟をとりまく子供たちの環に、かたくなな言葉を投げつけた。しかし、生活の場を移したことが地理のうえではどうなのか、そこまで少年の理解は及んでいなかった。関門トンネルという個有名詞が意味するものすらどこかあやふやなものだったし、子供たちが口にする疑念のなかみも、ほんとうにはわかっていなかった。
─長かトンネルぱくぐってきた!
 いいはる少年の言葉に偽りのあろうはずがない。たしかに、蒸気汽関車は青田のひろがる平地をひた走り、周辺の小丘に断続的な汽笛をたたきつけ、油蝉の鳴きしきる樹林地帯をぬって赤煉瓦づくりのトンネルヘはいったのだから。
─窓から顔ぱだしんさんな。
 どんなに母から注意されようと、身をのりだし、景色に胸踊らせ、力強い鉄輪のひびきを浴びておらずにはいられなかった少年だった。それでも、目にとびこんだ石炭の粉がとれず、もう少しでぺそをかきそうにもなったりしたのだが。
 あの長いトンネルをくぐってきたのだ。少年は、それがどんな名であれ自分にとってだいじなものだという本能だけに武装し、わけのわからない怒りに似たものを湧きかえらせていた。関門トンネルだろうとなんだろうといい、自分は自分の感じる遠いところからきて、いまここにいるのだ、少年はそういいたかった。
 子供たちの環に、まあいいだろうという受容の雰囲気が生まれた。少年の勢いある口ぷりに気圧されたこともあるのだろう。それにしても、このことで少年と弟は、子供集団のなかへ自分たちなりの存在の証明を果しおおせたわけである。
 新しい環境へ適応する能力の著しい子供の精神、旺盛な好奇心と外界の事物へのためらいない対応のしかた、少年をこの日にいたらしめたすべてのことどもが、瞼の裏におさなく親しい。紺青の海、銀の波のむこう、夢のペールのさらに奥、少年にとってのはじまりの場所S平野がある。あの地からここにきた、そしていまここにいるというその実感は、なぜかかつてなくとうといものに思えた。
「現金はいくらあるか?」
「心配いらんとよ、喰うていくぷんくらい不自由なかとよ。ばってん、あれだちも気ィつこうて、ちぢんだごとなっとるから、はようようなって…」
あれだち、というのは、自分と弟、それに妹のことなんだな、少年は額にべたつく汗を手の甲で拭いながら考えていた。父の声も母の声も、寝ぐるしい夜をつつむ聴きなれた古い音楽のようだった。心はしだいに凪いで、夢幻の海に同化する。底しれない澱みからの眠りが、少年をさしまねく。
 夏のおそい嵐の、遠い沖あいをよたよた北上してくる夜だった。

「奥さんもせっかくここに来なさったとけ、とんだことやったですねえ。うちのとうちやんも田川で首切られて、ここにおるとですばってん、子供のおらんけん、こがんときは気の楽。うちのとうちゃんな足くじいたぐらいですんだもんやけん、不幸中のさいわいで…奥さんとこは、ほんに気の毒か」
 隣家の主婦は湿った声でしゃべりつづけた。すじむかいの部屋にいる若い主婦が応じた。
「うちは両肩やられとるとですよ。飯塚おったときは傷ひとつしたことのなかひとやとけ、パージがにくかですねえ」
「どなたも苦労ばしとらすですねえ」
 母は言葉少なにうなづく。
 少年は、涙声をだす太ったおばさんの煤けた割烹着をみると、自分ながら気持ちのしなびていくのがわかる。おかっぱ頭の妹のさらさらした髪を、しきりになでるおぱさんの手は、つくね薯そっくりだ。粗い、昂ったものが、そのかたちにはふくまれている。
 奥さんとこは、ほんに気の毒か─ひりひり言葉をつないだ若妻の唇だけが、場ちがいに紅かった。
 母は怒ったように七輪を煽ぐ。なにより母が無口なのが、少年にはさぴしかった。常にない母の態度に、その場の空気がこわぱるのを少年は感じとった。やっばり小遣いをねだったのがよくなかったようだ。たちすくんだ少年の背後に、やはり弟はしょんぼり身をちぢめていた。この島へ渡ってからというもの、小遣いをもらったことのないふたりである。
 海ぞいの道から、長屋の路地へ走りぬける子供たちの手に手に、金属やプラスチックのモデルガンが握られ、なかには本物みたいな音をだすものさえあったのに、兄弟はただみせつけられるだけだった。安いのでいいからほしいと、おずおず切りだした少年に、今朝の母は驚くほど険しい顔をみせたのである。
 西瓜の皮を塩潰けにしたのを皿の裏で研いだ菜包丁で手ばやく切りわける。せめぎあう思いが、しぐさにこめられているのに、ちっとも危なっかしいところがない。その母の横顔のきつさ。
 隣家の主婦はしばらく沈黙してのち、ためらうようにいいついだ。
「マッカーサーには、だれでん勝てんとですよ」
「そうですねえ、うちたちはうちたちで生きてゆかんば、だれも助けちゃくれんとですから」
 普通ではない母の口調に、棘で鎧おわれたひびきのあることを、少年は敏感に悟った。表へでると生あたたかい風が頼をかすめる。
 定期船がくる桟橋附近で、いく人かの子供たちがにぎやかに騒ぎたてている。岩壁の下、伝馬舟のなかから、なにかがほうり投げられた。
 駆けつけた少年の目にとびこんだのは、体色も鮮やかな海蛇である。歓声とともに手網が、子供たちの集団と平行して移ってゆく。海が陸に、いや島に与えた不可思議な意思表示ででもあるのだろうか。斑模様の紐が、黄いろと黒にくねっていた。
 少年は防波堤へ走り、斜面にとびついてから身体を両腕でぐいと押しあげ、昨夕のようにコンクリートの頂部へ立った。
 空はおおかた雲に覆いつくされ、風が海をみている少年の前髪を吹き流す。雲足ははやい。M半島の上空には、灰いろの雲が渦巻いて、内海に浮かぶ島じまの緑までくすませていた。
「にいちゃん、ほら、みてん]
 ぽかっと明るい声で、弟が少年を呼んだ。
 ふりむくと、ブラスチックのちゃちなピストルをもっいる。銀玉をとぱすヤツで、このへんの子供ならたいがいもっているものだ。
「どがんしたとか?」
「いま、そこでひろうた]
 海蛇騒ぎのなか、だれかが落していったようだ。あははっ…少年は笑って弟の手からピストルをうけとり、重くたれこめてくる雲へむけて引金をひいた。

 薄っぺらな板でこさえた長屋だから、台風がくれぱびとたまりもないはずと、坑夫たちはいっていた。釘、金槌で窓はふさぎ、屋根は番線で固定しなおした。
 夜にはいって強い風がでだし、明けの朝にはたたきつけるような雨である。出稼ぎ坑夫の長屋はみしみしきしんで、いまにもよじれださんぱかりだ。雨漏りのひどい土間には、馬穴や盥がところせましとならんだ。
 漁業組合の船も来なけれぱ、買いものにもでられない日だ。主婦どうし声をかけあっておかずを交換しあう。
 各おのの部屋にまぎれこんだ時間は、いつになくぐずっているようだったが、それでも気体そこのけに薄まって抜けてゆく。昼の時報は風にちぎられ、あえぎあえぎ届いた。
「返事ばせんね!それはどがんして手にいれたとか説明しんさい」
「ひろうた」
「どこでひろうたと」
「そこの、船のくるところたい」
「そいぎ、なしかあちゃんの財布から百円なくなっとるとね?」
「そがんこと、おい、しらん」
「またうそぱいいよる。ほんなごて、こがん子供はうちの子やったね」
 プラスチックのピストルをさかいに、母と子のいさかいがつづいていた。父は蒲団に寝て、目をつぷっている。ほんとうに眠っているのか、それとも目覚めて耳をすましているのか、あおむけになったまま微動だにしない。
「ポケットぱみせてみんさい。おつりのはいっとらんね」
「知らんていいようやっか!」
 ぱしっと平手打ちの音がして、妹の、セルロイド人形に聴かせていたみょうちきりんな唄がやんだ。そのかわり、少年の鳴咽が部屋中を這いまわる。
「おいがひろうたどぱい、おいがびろうたとぱい」
 こんどは弟まで声をしぱりだす。
 母は、後悔と情なさで吹きだす汗を拭うゆとりもないほどだった。考えてみれぱ財布は朝から肌身につけている。はっと気がついて洗濯ものの束から自分の半柚シャツをとりだし、胸ボケットを探れぱ、はたしてあった。きちっとたたんだ百円札。わななく手にのるが、いっそひき裂きたいほどに重い。
 少年は泣きやんでじっと母をみつめている。
 やにわに父が半身を起こした。壁に片手をつき、もういっぱうの手で我身をささえながら立とうとする。歩こうとする。渋面に包帯とガーゼぱかりが白い。とっさのことで、母はうろたえていた。
「なんぱしよっとね、ああた。便所行くと?」
「…組のもんはきたか?」
母の問いには応えず、父は鉱山の下請け組織である組のひとつの名を口にした。それから逆に、使いのあるなしを問いただした。母は首をふった。
「事務所に行ってくる」
 父はぽつんといった。母は唖然とした表惰で父をみあげた。
「なんぱいいよるとね、こがん天気に。明日でんよかたいね。傷のひらくやろうが。動いたらいかんよ」
 おろおろいいたてる母を、きびしい声で制する少年の父だ。
「当座の金もいるだろうが」
「なんも、こがんときいかんでもいいでしょうが、外は荒れとるよ」
「なるべくはやく、おれは働きたい。ま、傷の数はともかく、どれもたいしたことはなかったとだから。とにかく行ってみる」
 父が土間から表に通じる引戸をあけると、雨粒のまじった突風が舞いこみ、あたりにちらかったゴミがいっせいに吹きあげられた。
 海面は白い。N県はおぼろな影のようだ。
 頭に包帯を巻いて、片頼にガーゼをあてた父は、浴衣いちまいで外にでる。竹の柄がついた大型の傘が強風に煽られる。
「雨がやんでからにせんね、ああた」
 軒下で母が呼びかけても、父はよろよろ下駄ぱきの足をすすめる。なにごとか、と長屋の主婦たちが顔をだしていぷかしがる。
「はようつれもどしてきんしゃい!」
 隣家の主婦だった。
 少年は弾かれたように戸口へむかった。父を見送る母の視界を、不安とあせりの逆巻く波を、いま共有する少年。
「とうちゃんぱみてくるけん」
「にいちゃん!」
「おまえはここにおれ]
 弟にひと声かけて、少年はとびだした。出稼ぎ坑夫長屋のまえは、もういちめん海の延長である。大粒の雨が前後左右、上からといわず下からといわず、強風といっしょにたたきつけてくる。
 両手を伸ぱし、みえない敵と格闘するかのように、少年はすすんだ。ランニングシャッも半ズポンも、あっというまにびしょ濡れになった。自い水の乱れ落ちる波。
 防波堤ぞいの道に、父の姿を追う。鉱山事務所ヘむかっているのだ。少牟は気力をふりしぼって走りだした。そのかっこうは粘性の高い液体のなかで走るというよりはのめっているようにしかみえなかった。
 海獣の牙のような大波が、楽らくと防波堤を越える。水の群徒はいっせいに立ちあがり、そのまま道へ落下してくる。
「とうちゃん」
 風と雨が共謀して、少年の声を空へ吸いあげる。激しい雨足と波の飛抹とに煙っている道に、父がよろけて倒れこむのを少年はみた。そして、電線の唸りや周辺に建つバラックのはめ板が剥がれる音、隆りつのる風雨の凶暴な声などにまぎれて、島が悲鳴をあげたのを確かにその耳にとらえた。
 父は身を起こせない。立ちあがろうとしている。傘がとんだ。波がもりあがってそそり立つ。防波堤よりはるかに高い。ぷちまけられる水のたぱ。うめくのは風鳴りの音。島の身震い。
 そのとき、少年は信じられないものを目にした。
 ふいに現れたずぷ濡れの少女が父を助け起したのだ。父は、よろめくように鉱山事務所への階段をのぼっていく。少女は急ぐふうもなく、こちらへ歩いてくる。
 長い蛇のような濡れそぼった髪が、少女の頭上で踊っている。少女の顔や手足はあおく、透きとおるようだ。身体にはりついたブラウスとスカートは、少女を、ひとりの女としてのかたちにする。防波堤を越えてくる波は、少女の頭上に高だかとふくらんで、彼女を避けるかのように水のカーテンとなってとびちる。
 少年には、水の筒のなかから少女がゆっくりと近づいてくるのがわかった。たしかに入江の夕映えにいた少女だ。そうだ、あのときの…でも、へんだ。こんなに歳うえのひとではなかったのに、それなのに、このひとだったという確信がある。
 少年はすれちがう少女をまじまじとみる。
 無表情な少女は、片頬にまとわりつく髪を手でおさえながら、まっすぐ歩いてゆく。どおんと大波が、防波堤にあたって砕けちった。遠ざかる少女のうしろ姿を、呆然とながめているうち、少年はわれにかえった。父はどうしたのだろう。
 少年は鉱山事務所のほうへむきなおり身体をかがめて進みだした。海とは反対側の、道ぞいに生えた樫の細枝ヘ、ホンダワラがひっかかっている。名もしらない藻類、奇怪な浮遊物、海は陸から棄てられたさまざまなゴミを、このときとぱかり投げかえしているのだ。波蝕の海辺は、海が島へなす報復の蒼灰色に染まってゆく。
 たどりついた鉱山事務所は、窓という窓を板きれで防いであり、玄関わきの通用門しかあいていなかった。小ドアをあけてのぞくと、外とはうってかわって事務所のなかは、たくさんの電球を灯し、まぱゆい光に満ちている。太い梁がむきだしになった高い天井とおおぜいのひとの声、たちこめる紫煙ときつい煙草のにおい。
 父はコンクリートの三和土に水をしたたらせたまま、なにごとかを一心に訴えていた。嵐の音にかき消されるまえに、その声は少年の胸にしみいっていった。父をかこむのは屈強そうな男たち。以前、顔をみせた組頭の弟分という男もいる。いかにもうるさそうな、乾いた声がとぶ。
 少年は思いきって歩みより、父のそぱに立った。男たちは顔をみあわせ、そそくさとひっこんでしまった。事務所の人びとは、びしょ濡れの親子を無視し、それぞれが机に顔をふせたままだった。
 父は、はじめて気がついたように、はっとして少年の
顔をみた。
「おまえ」
「とうちゃん」
 内海の小島が、水と塩と風とに身をよじらせる夏のおわりだった。
 外は吹きつのる風雨。           (1980年1月 蒲原雅人)

聞天短編小説劇場第2幕『朱色の地図』

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