読書ノート@ 「男性支配の起源と歴史」ゲルダ・ラーナー著 奥田暁子訳 三一書房
Introduction
 九州で独居を続ける82歳の母が、バイク事故で背骨を骨折、入院した、というので、あわてて駆け付けると、本人はいたってのんきに翻訳もの推理小説の文庫本なんかを病院のベッドで読んでいた。眼鏡いらずの強靱な視力の持ち主である。「いま、いちばんおもしろかとこよ」と笑っている。正直ほっとした。
 もうバイク免許は返上すれば…というが、本人は納得していない。電動3輪車なんかはたらたら走るからいやだという。意気軒高というやつだった。
 幸い3週間ほどの入院で済みそうである。わたしと弟とは佐賀の実家の掃除をして、関東に戻った。
 で、往復の飛行機や電車のなかで否応なく本を読む。
 日頃集中して読めない本をこの機会に読破しようとするわけだ。
 四ッ谷の図書館の廃棄本を定期的にもらっているが、そのなかの一冊を意識的に読み込んだ。
 それが『ケガレの民俗誌 ─差別の文化的要因─』宮田登・著 人文書院・刊 である。
 日本に於いては中世に女性が神の祭壇から引きずりおろされるわけだが、この理由を知りたかった。ほんらい巫女などの女性司祭者が備えているスピリチュアルな性格は男では代用できないはずである。宮田はこれを数々の資料と先人、同時代の研究とに照らしながら究明していく。女性の月経を不浄とし、
「ケガレ即不浄観を強力に打ち出したのは、宮廷文化を中心とする神事の世界であり、『穢気』の発生と不浄の排除のための技術としてミソギ・ハラエを定立させた」というように、「古代末期から中世にかけての支配層からの作為」を突き止めたのだった。
 神の祭壇から女性が追われるのは汎世界的なできごとだが、とうぜん例外もある。
 日本では沖縄などまだまだ女性の力は強い。
今回やっと「男性支配の起源と歴史」論をHP上に転載できるのだが、(改稿は最小限にとどめた)関連文献の読書の足りなさを痛感している。(2002.11.22)

 父長制諸制度に対する歴史的な死刑宣告の書である。だれであろうとも、これを覆すことはできない。
 訳文が日本語としてこなれておらず、ずいぶんとややこしいが、そこを越えると力強く格調高い言葉の渦が感じられ、怒涛のような思念の荒馬がたち現れる。  
 ここ数年の読書体験のなかで最もエキサイティングな内容をもっていた。というのは家父長制度が人類にもたらす問題点とその意味を具体的に指し示してくれたからである。日本に於いては家父長制度が天皇制と分かち難く結び付き、国民の市民意識を押さえつけ、政治的、社会的な自覚を妨げてきたが、(「天皇制支配確立のためには政治的、共同体的な秩序の崩壊を防ぐことを必要とした。自己の固有の権利に目覚めた個人が発生することは、家族共同体にとってばかりでなく、家族共同体の拡大と説明された家族国家の体制にとっても、最大の脅威だった」『家族制度─淳風美俗を中心として─』磯野誠一・磯野富士子共著 岩波新書今後この状況を打開するための理論的な展開にもおおきな示唆を与えてくれることだろう。なお、用語が若干異なっているがラーナーのいう家父長制というのは意味を広くとってあり、現代にも影を落とす男尊女卑の思想や、女性への就職差別、賃金差別などの状況をひっくるめて解釈してかまわないだろう。
 ころで最近、夫婦の選択的別姓制度の法制化に対して保守勢力、伝統主義者が頑強な抵抗をみせている。地方議会での反対決議が報じられたりするのをみると、保守勢力がことの重大さを逆の意味でちゃんと理解していることを思わされる。それと関連して、医師で登山家の今井通子さんと、エッセイスト・木村治美の朝日新聞紙上での対談を読んだとき考えたことがある。「日本は家父長制の国だから別姓には反対だ」という木村に対し、今井さんが勉強嫌いのドラ娘に言い聞かせるように、システムというものは変えられるし、変えていきましょうよ、とやさしく呼びかけていたのが印象に残ったのだが。木村が家父長制度を日本の伝統的な美風ぐらいにしか「理解」していないのは明らかだ。わたしは今井さんのようにはやさしくないのでこういうしかない。どこにでも奴隷根性の持ち主はいる、と。わたしの考えでは家父長制度は男のサディズムと女のマゾヒズムがセットになって成立しているわけだから、従来の女概念を疑わないひとがマゾのなかに止まるのはそれとして自然なことだと思う。だいたい自分たちのことを階級的に目覚めた人間集団だと思い込んでいるひとたちにして家父長制度の解体への展望など考えつきもしていないのだから、おして知るべしである。
「女性の解放は、労働者階級解放の後になる」などという「講義」を、わたしが最初に聞いたのは忘れもしない15歳のときだ。佐賀大学某教授の公開講座に於いてエンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」を引いての講義だった。わたしはそれがどうにもしっくりこなかった。疲弊していく炭鉱の日々に、母と呼ばれる女たちの忍従と、父と呼ばれる男たちの横暴さをつぶさにみていたことがなによりもおおきい。わたしのこの納得できない気持ちがかたちになって噴き出てくるまでには、それから長い時間が必要だったのだが、思えば回り道をしたものだった。   破哲三の「講座『家族、私有財産および国家の起源』入門」新日本出版社刊は初版が1983年で、24刷された1995年版を参照するが、初版からほとんど改訂されていないのではないだろうか。かえりみるに著者の意識はかつての佐賀大学某教授とさして変わりはないように思える。沖縄やアイヌの文化についての目配りもない。自分の知識の限界について盛んに強調してはあるのだが、エンゲルスをただしく継ぐのは彼自身の言葉以上に難しいようだ。
「重要なのは、男は性が原因で歴史的な記録から排除されたことがないのに、女は全員が排除されてきたことである」
 著者ゲルダ・ラーナーはウィスコンシン大学歴史学教授。本書は彼女の「The Creation of Patriarchy」(1986年)の全訳で`96年6月の出版である。何度も読み、考えていたら2年近くたっていたことになる。しかし、著者の努力を思うと軽々と読み解いたなどと口にできない本であることも確かなのだ。
「女性の従属が西欧文明以前に溯るのが事実だとしたら、わたしの研究は前4000年から始める必要があった。その結果、19世紀のアメリカ史を専門とするわたしは、フェミニスト理論をつくり出すために不可欠であると思われる問いに答えるために、古代メソポタミアの歴史研究に8年間を費やさなければならなかった」
 れた理論書に特有の明るい感じがこの本の風通しをよくしている。ラーナーはユーモアのわかるひとなのだろう。押さえてはあるが、
「攻撃性や養育のような要素が遺伝子としてあるいは文化として伝えられるかどうかに関わりなく、はっきりしているのは、石器時代には非常に役に立ったかもしれぬ男の攻撃性が核時代にあっては人間の生存を脅かしている」と伝統主義者を皮肉ったりする。
 「第1章 起源」はフロイト理論を徹底的に批判し、さらにエンゲルスに代表される「科学的社会主義者」の理論を批判的に検討、「両性関係の問題は階級関係の下位に位置付けられなければならないとするマルクス主義者の主張が、さらに事態を悪化させた」とし、次いでレヴィ=ストロースのいうインセスト・タブーが説明しえない部分を指摘、女性の従属の原因を一つに絞る説明と普遍性の主張だけではこの問いに適切に答えられない」と命題を整理している。かつて男女の平等社会が存在した、というさまざまな主張にも疑問を投げかけ、「どんな母権制社会もかつて存在したことはない」と結論づける。
 「第2章 有効な仮説」では、「女性を従属させるシステムつくりになぜ女性が参加したのか」を問う。まず、母権制の探求は不毛だからやめるべきで、「はるか昔の女たちのための代償の神話をつくり出したとしても、現在と未来の女たちを解放することにはならない」と冷静である。至言だと思うのは、
家父長制的思考様式は、私たちの精神形成のプロセスに組み込まれているので、意識的に気づかない限り、それを排除することはできない。それには不断の努力が必要である」と注意を喚起していることだ。そのうえで「原因は一つしかないとする解釈を放棄」し、「いくつかの出来事が同時に起こる場合、お互いの関係には必ずしも因果関係があるとは限らないと考えるべきだ」と探求の姿勢を明らかにする。
 して、原始社会に目を向け、「生殖年齢にある女の健康や生存を保護していなかったりする部族や集団はおそらく生き延びることができなかった」し、原始社会に於ける「女の養育活動は、女たちが食料の採集に自信をもっていたことや、多くの生活に必要な技能を開発する能力を持っていたことと相まって、男からも女からも力の源泉として(おそらくは魔力として)見られた」とする。ここから「女に対して恐怖や畏怖の念、そしておそらくは不安の感情をもつなかで行われたにちがいない個々の男の自我形成が、男たちの自我を鼓舞し、自信を強めさせ、自分たちの価値観を有効なものとする社会制度」つくりに向かわせたのだろうと考える。
 こで再びレヴィ=ストロースのインセスト・タブーに基づく「女性の交換」がとりあげられ、彼と同じくこの女性の交換が最終的に私有財産を生んだとするメイヤースの理論が紹介されている。「出産における女性の生物学的弱点が部族に他の集団から多くの女を獲得させることになり、女の略奪へと向かうこの傾向が絶えず部族間に戦闘を引き起こす」「その過程で、戦士文化が生まれた」
 女は所有物とみなされ、その生殖力は部族の財産となり、支配階層の出現に従い特定親族集団の財産となった。それは農業の発展と共に起こっている。母系性(母権制ではない)と母処居住制が父系制と父処居住制にとってかわられ、「女性の世界史的敗北」が完成するという。さらにピーター・アービイの説を援用しつつ、「農業革命の途中で労働力の搾取と女の性的搾取ががっちりと結びつき両者を切り離せなくなった」と結論づけている。
 お、女性を抑圧するシステムつくりに女性自身がなぜ参加したか、についてはボールディングの説が引用され、「女は部族同士をつなげる役割を演じることによって文化的柔軟性と如才なさを育てた。自文化から隔てられた女たちは、二つの文化にまたがり両方の生き方を習得した。このようにして得た知識が彼女たちを権力に近づかせ影響力を行使させたのではないか」とこの説の有効性を認めている。
 「第3章 代役としての妻と人質」からは歴史的な考察が始まる。
 ラーナーの猛勉強の精華は遺憾なく発揮され、われわれはこれについていくのにおおいに頭を悩ますことになる。
「文字が発明され学問が確立すると、女性は教育への平等な機会から排除される。古代国家の宗教的基盤である宇宙創造説は女性神を男性神に従属させ、男性支配を正当化する起源神話をつくり出す」    
 なぜジェンダー概念が発生したのか、ラーナーはメソポタミアに関する数万枚の粘土板に語らせようとするのだ。難しくて頭がこんがらがるが、それにしてもスリリングな展開だ。詳しくは本書に直に取り組んでもらうしかないが、資料を険しく選択して種々の例を示し、「一部の男たちが他の男性と女性全体を支配する権力」をもつ権力関係の出現を指摘し、「経済や政治の発展が完全に国家を制度化する以前に、そして家父長制のイデオロギーが成長するずっと前に、両性の間にある家父長制的関係の基盤はすでにしっかりと定着していた」としている。
 「第4章 女奴隷」には、集団間の戦闘により捕虜になった男たちはことごとく殺され、女たちは強姦という手段によって奴隷化されたことが取り上げられるが、「女性の抑圧は奴隷制以前に始まり、女性の抑圧が奴隷制を可能にした」ことがまずあげられる。そのうえで、「捕虜となった女性の性的奴隷化が、家長主導の婚姻などの家父長制的諸制度と、女性の『名誉』を純潔に置くイデオロギーを発展させ、精巧なものとする一歩になった」と考えている。そこから、「召し使いの少女を主人が性的に使用するという話は帝政ロシアや民主国家ノルウェーを含め、19世紀のヨーロッパ文学の主題である」と近現代までも連綿と続く性的抑圧の流れを見通して、「階級が発生した最も初期の時代から現代まで、上層階級の男による下層階級の女に対する性的支配は女に対する階級抑圧そのものであった。はっきり言って、階級抑圧の状況は、男と女にとって同じであったと考えることはできない」と断固として主張している。通俗的なマルクス主義者に対しての強烈な批判でもある。
 ーナーは初期ヒッタイト法や有名なハムラビ法典、聖書の創世記、イスラム法、インカのアックラ制、古代中国の「陰陽法」などから豊富に例を引く。だがなんといってもホメロスの叙事詩『オデュッセウス』をひもといて当時の性的な支配関係を明示するところが分かりやすい。敵のレイプによる被害者であっても女奴隷は、彼女たちを所有する主人の財産を冒した罪により残酷に殺される。レイプされた奴隷は悪く、されなかった奴隷は良いという二分された状況下では女は連帯できないし、主人の女奴隷たちへの愛情は暴力と所有の形態をとることで、殺すことと快楽の追求が同レベルというサデBステックなものとなる。作者は「家父長制下の両性の関係をメタファーとして表」したというのだが、それは「帝国時代の中国で、古代から20世紀の今日までつづくギリシアやトルコの農民社会で、さらにはアメリカ兵士とヴェトナムや韓国の女性との間に生まれた非嫡出子の今日の状況のなかで」「侵略してきたパキスタン人兵士によって強姦されたバングラデシュの女性が大量に家族から追い出されている事態」に再現されている、としている。旧日本軍によるアジア人女性(一部白人女性も含む)の性的奴隷化や、バブル期花盛りだったフィリッピン、タイなどへの日本人男性の売春ツアー、及び途上国からの出稼ぎ女性に対する婚約不履行、こどもの養育放棄などもこの文脈で考えるべきだろう。(『女たちがつくるアジア』松井やより著 岩波新書 に詳しい)  「第5章 妻と妾」では、メソポタミアの三大法典(ハムラビ法典、中期アッシリア法典、ヒッタイト法典)と聖書の法とを掘り下げて解釈している。
「四つの法を見ると、性行為の法的規制に大きな関心が集まっており、しかも、男性に比べて女性に対する規制がずっと厳しくなっている」「ハムラビ法は女性を奴隷にして使用する場合と結婚によって女性を獲得する場合との違いが鮮明になるように性的行為を規制した。メソポタミア法やヘブライ法は本妻と妾、既婚女性と奴隷を明確に区別して規定している」
 ラーナーはヘブライ法がそれまでより正妻と妻の地位を高めたことに注目し、「すべてのこどもが両方の親を尊敬することを基本的な掟とした出エジプト記」への進歩を家父長制家族の強化と考えている。つまり、性的には従属させるかわりに妻としてのささやかな階級の利益を与えたわけである。その妻のささやかな権利(持参金の使用権)も彼女の夫に対する性と生殖のサービスに依存していた。(彼女は夫に男の子をもたらさなければならない)ホモガミー(同じ社会的ステータスにあるもの同士の結婚)の奨励によって財産は有産階層内に留まるよう図られていたこともある。
「古代国家はその始まりから、家父長制家族に依存し、家族の秩序正しい機能と公的領域における秩序とを同一視していた」
「家父長制家族を共同体の健全な有機体の細胞・基礎的要素として表現するメタファーはメソポタミアの法に初めて現れた」
のだが、今日まで強大なイデオロギーとしての影響力を維持していることを重視する必要があろう。国民は陛下の赤子(せきし)である、われわれは臣民(しんみん)である、ということを本気で信じている人間はちゃんといる。そこまでキレていないにしろなんとなく「紀子さん、雅子さんいいな」程度のひとはだれのまわりにもごろごろしているだろう。それにしても男の子をこさえなければならない、というプレッシャーに苦しめられている女性は皇族ならずとも今でも世の中にたくさんいる。こんな残酷な話はないと思うのだが、相手の男の方は案外のほほんとして世間から責められないというのはずいぶんアナクロな構図ではないか。
 「第6章 女を覆い隠す」は売春のもつ社会的な意味を探っている。
 ラーナーのフリードリッヒ・エンゲルスへの評価をまず見よう。注目すべきは、
「売春の起源がセクシュアリティに対する態度の変化と宗教的信仰にあること、私有財産と奴隷が制度化された時期の経済的社会的状況の変化が性的関係に影響を与えたことを洞察していることである。その著作の中にどれほど学問的にみて間違いや欠陥があったとしても、エンゲルスはこれらのつながりに私たちの目を向けさせ、社会的関係と性的関係が本質的に関連していることを理解していた最初の人であった」
 ラーナーは宗教儀式の一部である性的祭儀と商業売春との直接的なつながりに疑問をもっていて、特に商業売春を「女の奴隷化と階級の形成・強化に由来するのではないか」と考えている。さらに「農民の貧困化と、飢饉の時代を生き延びるために彼らがますます借金に依存するようになった結果、債務奴隷が発生」したことにその源泉をみている。メソポタミア社会を例にとってのこととはいえ充分に納得のいく説明だと思う。
 産階級の妻たちへの性的規制が強化され、娘の処女性が財産として高く認識されればされるほど男たちは性的欲求の充足を商業売春に求める。なにが便利といって娘たちと妻たち、一人の男に性的に奉仕する女にはヴェールをかぶせ、「公共の女」にはヴェールを許さなければ一見してそれと判る。「身持ちのよい女」と「身持ちのよくない女」にはっきりと分けておけばなにかと都合がいい。さらに都合のよいことに、
「これは経済的・性的に抑圧される下層階級の女性たちに対する上層階級の女性の限定された特権となり、女たちを二分してきた。歴史的に見て、この区分は女たちの階級を超えた連帯を不可能にし、フェミニスト意識の形成を妨害してきた」のだった。
「大胆にもヴェールを被って街に出てきた娼婦は反抗的な兵士や奴隷と同じように、社会秩序にとって大きな脅威であった。娘たちの純潔や妻たちが一夫一婦制を守ることは社会秩序を維持する重要な要素となった」「国家はそれまで個々の家長や親族集団に任されていた女性のセクシュアリティの管理を引き受けることになった。前一二五〇年以降、公共の場でのヴェール着用の義務から国家による産児制限と中絶の規制まで、女性の性の管理は家婦長制権力の基本的な性格となった。女の性的規制は階級形成の基礎であり、国家を支える土台の一つなのだ」 在でも、妊娠中絶法案に反対するバチカンを主勢力とした伝統主義者はヨーロッパにも、合州国にも、南アメリカにも大きな力をもっている。アフリカでは少女たちへの「割礼」が数多く強行されていて、不潔な手術で命を落とす例も数多いという。女性にヴェールを強制するイスラム原理主義の流れは止めようもない。日本を含むアジア各国の伝統主義者たちは人口の減少を嘆いては「女性は家庭に帰れ」式の相変わらずな宣伝に余念がない。
子供を生む、生まないは個々の女性の主体性によって決定されること、女性の性の国家による管理はどのような「理由」をつけようとも歴史の歯車を逆に回すことであること、を地上のあらゆる地域で、共通の認識とすることはますます必要になっている。伝統主義者たちの働きかけに対しても傍観者であってはならないだろう。ここに本年4月1日の朝日新聞に掲載された17歳の女子高生の投書がある。
 文体と漢字の使い方をみると17歳とは思えないが、それはまあいい。問題はこういう意見が国民の底辺に根強くあることだ。これをリアルに認識して、根底にある無自覚で錯綜した差別思想を、自己実現をみずから阻むマゾヒズムを、見ていく必要があるだろう。
最近は専業主婦が少なくなってきている。仕事をしたいがために、結婚を望まない人もいるという。だが、私は女性が男性と同じように働き、家事も分担することには反対だ。
自分が仕事から帰ってきたら「お帰りなさい」と迎えてくれる人がいて、おふろも食事も用意してある。男ならこういう家庭を望むだろう。でも、お嫁さんが働いていたらどうだろう。仕事を終えて、くたくたになって帰ってきても、食事の用意もできていない。それから掃除機をかけられたのではたまらない、と思うだろう。
家事は大変だけれども、それなりに楽しいこともある。時間に束縛されずに、自由に時間を使えるなんて素晴らしいことだ。確かに裕福な生活は望めないかもしれないが、それでいい。温かい家庭があれば、それだけで十分なのだ。結婚を望まない女性はつまらないと思う。
高齢化社会となりつつある今、子どもの出生率が大変低い。せっかく女に生まれてきたのだから、結婚して子供を産むべきだと思う。それが女性だからこそできる、最大の仕事と言えるだろう。
                可児市 田中梨恵子(高校生 17歳)
 「第7章 女神」はますます難解で深い。
「耕作農業の発展が軍国主義の増強と相まって、親族関係とジェンダー関係に大きな変化をもたらしたように、強力な親族関係と古代国家の発展が宗教的信念とシンボルの変化をもたらしたのである。注目すべきパターンは、まず母なる女神の地位が低下し、その配偶者または息子の力が優勢になり、後には支配するようになる。次に、荒れ狂う神と合体した配偶者ないし息子が男性の創造神となって、男女の神々を統治する。このような変化が起こるところではどこでも、創造と豊饒の力が女神から男性神へと移管される」
 ここで人類学者ペギー・リーブス・サンデーの方法論が引かれ、創造物語の分析が展開される。前2000年紀に多くの社会で起こった社会的・経済的変化の過程を見直し、代表的なメタファーとシンボルに焦点を当てていく。
「部分的な証拠を過大に一般化することによって、意味をゆがめる」危険性について、ラーナーは繰り返し警告しながら論を進める。
それでも「母神はほとんど全世界的に最古の物語りに他を圧する存在として登場する」ことは言い得る、とする。それは極端に誇張された乳房や尻部をもつ人形が世界的に共通して出土することで裏付けられる。『日本神話』上田正昭著(岩波新書)でも「女性が古くから呪術とつながりをもっていたことは、縄文時代の呪物のひとつである土製の人形(土偶)や小判型または長方形の土製品(土版)に、女を形どったものが多いことにも反映されている」と指摘する。ところが、起源神話になると、エジプト神話などでは女神ナンが太陽神アトムを産み、アトムが宇宙を造る、といった女性の性の超越性が強調されているのに、日本神話では、女神イザナミが「あなにやしえをとこを(わあ、ハンサムね)」と先に声をかけてから国生みしたので、ヒルコ(不具の子)が生まれた、とすでにして家父長制的な発想に彩られている。アジア各地に類話はあるらしいが、深読みすれば記録以前の神話では女性の積極性が肯定的に語られていたその名残りなのかもしれない。
が、それはともかく、
 その後、アニミズムにもとずく大女神信仰が現れて、
 「大地と星、人間と自然、生と死は分離しておらず、大女神はそのすべてを体現していた」
代表的なのがミノアの蛇神であり、彼女は各地に伝えられて例えばギリシアではヘカテ=アルテミスとして信仰されている。それらはすべて「女性の多産を崇拝するかつての信仰形態から派生した概念」であるのだが、「動物の家畜化と畜産の発展にともない」「生殖に果たす男の役割が以前よりは明白な形で認識され」、反映してきているという。さらに時代がすすんで、文字が発明され、歴史が始まり、人間が「名付ける」という行為によって抽象概念を表せるようになると、「前3000年紀の初め頃、母神は神々のなかの最高位から外される。彼女にとって代わったのは通常は風の神、大気の神、雷の神などの男神で、時代が進むに従って、これら男神はますます新しいタイプの地上の王と類似するようになる」
 が、女神信仰はその後2000年間なくなりはしなかった。ラーナーはそこに女たちの抵抗をみている。証拠はないにせよそうとしか考えようがないのだ。わたしもそう考えていいと思う。
「女の生殖力や性的力が現実の生活のなかでいかに貶められ、商品化されようとも、女神が生き、人間の生を支配すると信じられている限り、思想や感情から本質的な平等を消滅させることはできない」のだから。
 「第8章 族長」では聖書の『創世記』に焦点があてられる。
 家父長制家族を最小の単位とし、砂漠の遊牧民や半遊牧民はそのいくつかの家族を集めて氏族(クラン)をつくる。氏族は連合して部族をなし、復讐に責任を負う血の掟を認めた。
 ヨシュアに率いられたイスラエルの民が約束の地、カナンを征服したのは前1250年ころとされる。
「ユダヤ教の基本原理が形成される重要な時期に、水のない乾燥した環境に定着して農作業をし、同時に戦争や伝染病によって人口が失われるという二重のプレッシャーを経験したことが、聖書が家族と女性の生殖役割を強調する理由かもしれない。このような人口の危機状況を目の前にして、女たちは母親役割を最重要視する分業に同意したのではないだろうか」
 ビデ王の創始したイスラエル王国はたった200年しか続かなかった。しかし、あいつぐ戦いのなかに不寛容の思想がヤーウェ思想へ導入され、唯一神信仰が成立する。それは、倫理的価値観に執着するものならだれもが信仰にはいれるという可動性を備えたユダヤ教が、家父長制の概念や思想を体系化していく過程でもあったようだ。
 興味深いのは、聖書の創世記にあるロトが天使を守るため娘ふたりを差し出そうとするエピソードの解釈である。ラーナーは、ロトにとってたとえ悪党に強姦されようと自分の娘は自分の好きにしてよかったのだ、とする。士師記にあるエピソードの解釈も同様だ。ならず者にとりかこまれたとき、主人は客を守るため「処女であるわたしの娘と、あの人の側女」とを差し出そうとする。当時女性の生命が男たちの意のままになるのは当然視されていたのである。
 「第9章 契約」
「聖書のなかで示されるもっとも強い性のメタファーは、女が男の肋骨から造られたこと、彼女がイヴという名であり、誘惑者で、人類の堕落の原因を造ったとされていることである」
 ラーナーは聖書の解釈はまさしく文字通りに解釈すべきで、そこにはどんな楽観的フェミニスト解釈も介在する余地はない、と考えている。西洋文明を通底する男性優位の思想は聖書のもたらしたものであって、この事実から目をそらしてはならない、ということだろう。
「重要なのは、ヤーウェはアブラハムとだけ契約をしたのであって、そこにはサラは含まれていなかったこと、そうすることで、神は家と部族を統率する家父長の指導力に神の承認を与えたことである」
 もしろいのは割礼に関する考察で、契約の印としてペニスが選ばれたことに注目している。「子孫/種」を生産し、女性の子宮に「植え付け」る器官を選ぶことで、人間の豊饒(不死)が神に依存していることを適切に印象づけたのだ、と。古代エジプトやメソポタミアでも思春期の儀式として割礼は広く行われていたらしいが、イスラエル人はこれを幼児期の儀式に変化させた。「アブラハムとその一族の男たちは割礼の儀式を成人として行ったのであるから、痛かったには違いないが」というところでは思わず笑わせられた。ラーナーはちょいとしたいたずらを忘れていない。
 「第10章 シンボル」
 まず、エーリッヒ・フロムの「人間は半分は動物で半分は表象(シンボル)である」という言葉が引かれる。ところが歴史のなかでシンボル体系づくりから女性は排除された。 
 注目されるのはアリストテレスの理論である。「運動の第一原理、すなわち、男性を生み出す作用因は女性を生む物質より優れ、聖性が高い」という例のあれである。「聖書の描く堕落したイヴと、アリストテレスが提示する男のできそこないである女によって、本質・機能・能力の異なる二種類の人間─男と女─の存在を主張する表象概念が出現した」
 日本の女性たちは「ひらがな」を考案し、千年以上前に当時の世界の男たちが及びもしなかった水準の文学作品を創りあげた。一部の上流階級の趣味の範囲を越え、和歌などは底辺において女性にもひろくたしなまれていたという。歌の掛け合いで相手を選択するという優雅でなんの強制力もない男女の触れ合いが過去には存在した。中国映画『青春祭』にはその万葉の歌垣を思わせるシーンがあるが、それは中国雲南省の少数民族の間に残っているものである。(『トンパ文字─生きているもう一つの象形文字─』王超鷹著 マール社刊 によれば、ナシ族のなかでもモッソ族と呼ばれる小集団は現在でも亜注婚「アチュこん」、つまり妻問い婚を維持しているらしい。生涯に100人もの男性と関係をもつ女性も珍しくなく、生まれた子供は父親が誰かというより共同体で育成される)
 国時代になると少数の例外を除いて日本女性たちはその存在を薄れさせ、名前を失っていく。だれだれの妻、という表記しか残らなくなるのだ。背景には家父長制の確立があったことは論をまたない。
 「第11章 家父長制の創造」は、要領よくこれまでの内容を振り返って結論へと至る章だ。とっつきやすいとはいえない本なので、頭から読むよりは最初に訳者の解説とこの章を先に読むのがいいかもしれない。
「女たちは自分たちが劣等であるという思想を内面化するべく精神形成をしてきたので、長い間、自分から女の従属の過程に参加してきた。(中略)戦いと達成の歴史を知らせないことが、女を従属状態に置いておくための主な手段の一つであった」
『第二の性』のホーヴェワールが「女には歴史がない」と考えたことをラーナーははっきりと批判する。しかし、家父長制的思考に慣れ親しんできた女たちにとって、この思考の枠組みから外れるのがいかに難しいかラーナーはよく承知している。「私たちの頭の中には最低一人は偉大な男性がいる」とは言い得て妙である。
 話は変わるが、かつて宇野とかいう最低の総理大臣がいた。かれのセクシャルハラスメントを告発した勇気ある女性に対してこの社会がどう反応したか。事情があって酒席にはべるしかなかった彼女の行為に対して、瀬戸内寂聴などは「プロは秘密を守るものだ」とコメントした。わたしはあきれてしまった。頭なんか丸めたって自己の価値観を常に検証しない人間は所詮こんなものだ、といういい見本である。(ところで、ミスター宇野に勲一等旭日ダイジュ章←【字が判らん】を与えた日本社会のでたらめさは同時に記憶されていい)
「私たちの頭の中にある偉大な男性を追い出し、その代わりに私たち自身、私たちの姉妹、私たちの無名の祖先たちのことを考えること」が求められている。
「家父長制のシステムは歴史的構造物である。始まりがあるのだから、終わりもある。家父長制の時代はそのコースをほとんど走り終えたように思われる。家父長制のシステムはもはや男や女の要求には応えられないし、軍国主義・階層制・人種差別主義と身動きのとれないほど結び付いて地球上の生命の生存そのものを脅かしている」
 わたしは朱ペンでここのところに書き込みをいれた。経済中心主義・金儲け第一主義や自然環境破壊の開発至上主義なんかとも結び付いて、やれ死ぬまで働けの会社主義、もうからん奴はリストラのイジメ、上にいくほどだれも責任をとらないご都合主義へと変化発展するが、どこまでいってもこれは野郎中心主義、まさしく家父長制そのものの論理だろう、と。
 びの言葉はうつくしい迫力と格調高い思念の結晶だ。
「フェミニストの世界観は女と男の心を家父長制の思考と実践から解放し、ついには、私たちに支配と階層制から自由な世界、真に人間らしい世界をつくることを可能にするだろう」
 ラーナーの準備する続編が楽しみだ。そして大事なことは、アジアの地域的な特徴を備えた家父長制の歴史的展開をラーナーの方法論を参考にしつつ、だれかが書くということだろう。ひょっとすると、日本のへこたれない女たちが書き上げつつあるということかもしれないが。

(沖縄に対する米軍基地用土地の強制使用を計る特別措置法成立の日に記す)   1997.4.19「ふみの会ニュースNO.205」より転載。                  

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