藤野囃子と土人形
 藤野のさまざまな年中行事に花をそえる藤野囃子。その沿革を保存会の資料から抜粋すると、ルーツは明治初年へとさかのぼります。当時、江戸で回船問屋をしていた橋本某により山車が寄進され、これの曳行のため八王子から目黒囃子(いわゆる馬鹿囃子と呼ばれる)の師匠をまねいて地元民が学び、祭礼の際の神社への奉納をおこなうようになった、ということです。明治40年(1907年)ころには盛況を極め、藤野はもちろん牧野、佐野川、日連、名倉、吉野、沢井と町内各地で盛んに演奏されていたようです。第2次世界大戦のおり衰微したものの、昭和46年(1971年)保存会が各地にできて往時の活況をとりもどし、今日に至っています。昭和58年(1983年)には神奈川のまつり50選に入選。藤野神社の祭礼にとどまらず、地元観光および商工業行事への参加をはじめ幅広い分野での寄与がなされています。
 囃子は笛1人、鉦1人、小太鼓(締太鼓)2人、大太鼓(大胴)1人の5人囃子で、山車の上で演奏されることから屋台囃子とも称されます。山車は現在も原形をとどめ、無彩色の木地を生かした素朴なつくりが民俗芸能にふさわしい雰囲気を漂わせています。毎年8月17日の例祭には提灯や造花でにぎやかに飾り付けて、藤野駅前周辺で囃子連の名調子が披露されるのですが、変化に富んだ曲は聴いていてじつに楽しいものです。
 囃子にあわせての踊りには、獅子、天狐、おかめ、ひょっとこ、鎌倉など種類もたくさんのひとり踊りから、「段もの」と呼ばれるふたり以上の構成による踊りがあります。いずれも日本人がほんらい備えていたユーモアと豊かな人間味にあふれたもので、その所作のひとつひとつに笑ったり感心させられたり、みていてあきません。
 工房聞天の土人形は、藤野囃子のもつ清新なエネルギーを吸収することから企画され、あふれる庶民のバイタリティーを造形化することを狙いとして出発。まる2年の試考の末に原形をスケッチ。試作品ができてのちは町内のさまざまな方のご意見をたまわり、ようやく実物の制作へと至りました。第1期8作はまだ無我夢中のところがあり、今後はいま少し落ち着いて展開していきたいと考えています。みなさまの率直なご感想をたまわればこれに過ぎることはありません。
 なお、藤野囃子保存会会長、荒井一美さまはじめたくさんの方から貴重なアドバイスをいただいたことを付記し、ここにあらためてお礼申し上げます。
                 工房聞天(2000.9.23)
土人形…CLAY DOLL
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