第7回タマゴタケめし、モッコリの刺し身」


たいして稼いでもいないのに、やたらに忙しい。
仕事の実態は薄いのに気ばかりあせっている。そうして忙しく頭をかきむしってばかりいるわたしを哀れに思ってか、山に出かけては天然キノコを採集してきてくれるのが名倉のシゲちゃんである。ときにはかれが腕をふるったごちそうぜめにあわせてくれるし、先日は採集したてのものをわざわざ持参してくれた。これがまさに食べごろのもので、自然の美味を味わうことからいっても、薬膳という意味でいっても、最高の素材だった。
シゲちゃんは自分のふたりの子どもたちと、友人の中学生の子との4人で山梨側の1200mの地点まで車で登り、そこでこれらのキノコを採集してきてくれたのだった。感謝、感謝。こういうプレゼントはなによりありがたいものである。なんといっても、ほんの短期間にしか姿をみせないものだから、時期を失すればうかうか数年は食べ損ねてしまうからだ。
新鮮なタマゴタケ。低山でこの量を確保するのはなかなか難しい。左下2本はチチタケ。
少なめの水でゆでる。煮汁がオレンジ色に染まったらOK。
さて、「タマゴタケめし」である。上記の写真のようにしてできた濃い煮汁を炊きたてのごはんにかける、上から醤油を少々たらす、という、ただそれだけのものである。卵のような硫黄臭はなく、キノコのさわやかな匂い、そして奥深い味。絶妙といっていい。天然キノコに対する偏見をどこで捨てるか、というのは現代人に等しく投げかけられた古代からの問いだろうが、ここはいちばん捨てどころ、といっていいのでは。
金さえ払えば世界の珍味が味わえる時代とはいえ、こういう野性の味を知らないでいる、というのは実にもったいないと思う。

こんなシンプルな味わい方もほかにはすくないだろう。これにはごはんの力がおおきい。こうやってみれば。おおげさに料理などといわないでもいいぐらいだ。たしかに、フレンチのソースもいいし、中華の具だくさんの味の饗宴もいい。だが、ここには「なにをおいしいと感じるか」の人間の味を感じる能力の原点があるような気がする。


主にウラグロニガイグチとムラサキフウセンタケ。左下にはウスヒラタケがあり、同定できないキノコも混じっていた。 
いま、標高1000mを越すハイランドの地は、初秋のキノコの大発生で幻想的な雰囲気だという。写真の籠に盛られたキノコたちも、採集前はもっと色が鮮やかで、知らないひとたちがみたら、より無気味にみえたことだろう。写真のムラサキフウセンタケやそのほかのキノコはまとめて煮てスープをとった。色が真っ黒になってしまい、見た目はよくなかったけれど、味はなかなかで、煮干しのダシと組み合わせて各種の料理に隠し味とした。
これがウラグロニガイグチの刺し身。さっとゆでて薄く切り、氷の上にならべた。柄よりも傘のほうが舌触りがなめらかでうまい。これはシゲちゃんがわざわざ電話してきて教えてくれた食べ方である。ところで、「モッコリ」というのは、わたしが勝手にそう呼んでいるだけのことなのだが、ウラグロニガイグチの姿形からなんとなくそういう語感に導かれたのだ。だいたいウラグロニガイグチなんて名前にはキノコに対する愛情が感じられない。このうまさと姿とに楽しさを加味して「モッコリ」なる新名をささげたい。付け加えると、図鑑に載っているウラグロニガイグチはもっと柄が長く、ひょっとすると本種はよく似た種類の別の食用キノコかもしれない。     (2004.9.7)

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