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わが歌は鉄のうた
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E
ギターのはなし
名倉のシゲちゃんが20年ほど眠っていたわたしのエレキギターを修理してくれた。シゲちゃんは、「もう、こんな音のでるギターはありませんから、大事にしたほうがいいですよ」と、ばっちり修理したうえに、わざわざ言葉をそえてくれて、ちょっと感動させてくれた。なにしろ年代物である。このギターはいまから35年前、わたしが18歳のときに勤めていた製造会社の社内バンドで使っていたものだった。当初、わたしは同じジャパン・ヴァ−ンズ(英国のBurns社との技術提携で日本で作られたモデル)の別のギターを使っていて、これはバンドのリーダーだったMさんが使っていたものだ。それがMさんの現場から営業への転勤に伴って、わたしの手元に残されたのである。いらい35年間わたしの身近にあったわけだ。わたしは自身の転職後、別のバンドを立ち上げてこのギターをメインに使うようになったのだが、その間には当初使っていたギターを含めて故障したエレキを3本捨てている。この話をシゲちゃんにすると、「なんてもったいないことを」といわれてしまう。まったくだ。もったいないことをしたものである。ところが話はこれにとどまらない。わたしは引っ越しをするたびに後輩にアンプ類をゆずってきている。いまではヴィンテージ品としてマニアの垂涎の的であるエーストーンの100Wのギターアンプ、80Wのヤマハのギターアンプ、55Wのグヤトーンのボーカルアンプなど。いま所持していたら…と詮無いことながら思わないではない。
さて、話をギターにもどすと、この赤いエレキはフェンダ−社のテレキャスターにデザインがそっくりである。スイッチの直線的な配置といい、白いカバー形状といい、もろにパクっている。ポジションマークがちいさいことや、むこうのマイクが金色メッキなことを除いたら瓜ふたつといっていい。あのころ、1968年当時にフェンダ−社のテレキャスターを買える人間といえばそうとうな金持ちではなかったか。といっても、このギターだって決して安くはなかった。高卒の現場の労働者の給料が月2万くらいのときに、6万円くらいしたのである。月賦を払うのが苦しかったことをいまさらのように思いだす。
後年、マディ・ウォーターズの旧い写真をみたとき、かれが赤いテレキャスターを弾いているシーンのがあって、なんだかうれしくなってしまった。かれは本物を弾き、わたしは日本製のもどきを弾いていたわけだが、いまとなっては、近藤勇のニセ虎徹ではないがこいつ本物より切れるようになっているような気がする。
このギターは音色からいくと甘い感じのトーンが特徴で、トーンコントロールのつまみをゼロに近く絞ってリードを弾くと「泣き」が生まれる。昔はレギュラーチューニングだったから短い指をストレッチさせてむりくりに早弾きしていたが、いまはオープンでスライドを弾くわけだから比較的にのんびりしたものである。東急ハンズで探した小瓶を指にはめて使う。ガラスが薄いのですべりはいいけれど音はいまいちだ。ワイン瓶の首を自分でカットするか、ガラス製のスライドバーの厚みのあるやつが欲しいのだが、まだ手に入れていない。なお、トレモロアームは取り払ってある。ふだん使わないからだ。かつてはジミ・ヘンみたいにトレモロア−ム使いの名人になりたかったのだが、どう考えても、考えなくても無理だった。
写真に一緒に写っているアンプは、八王子の下倉楽器で1000円で買ったアリアの10W中国製アンプ。中古品だったがよく鳴った。シーゲル堂でのミニコンサートでも活躍してくれたが、買って1年たたない先日、練習中にプツッ!という音とともに鳴らなくなってしまった。まだ裏蓋を開けて故障箇所をみてもいない。1000円だったから楽器店に文句はいえないしなあ…
1978年製のギルドD-55。日本から発注されたもので、サウンドホールのなかのラベルがだ円形のブルーだ。サイド&バックがローズウッドで、作りもがっしりとして重い。`85年ころ、お茶の水の黒澤楽器で中古品として買った。キャッシュで20万払ったと思う。そのときすでにピエゾピックアップが内臓されていて、これには後でいろいろと助けられることになる。買った当時はあまり鳴らず、前の持ち主が弾きこんでいないことはあきらかだった。オープンコードでがんがん弾きまくるようになって2〜3年してから鳴りだした。それもむちゃくちゃに鳴るようになったのだ。路上で弾いてもアンプなんかいらない。ビルの壁を背にすると反響でうるさいくらいになった。
ネックシェイプは首のあたりは薄くて押さえやすい。ところがハイポジションはぼってりして指が長くないととても押さえきれない。そういう面でもスライドを弾くのにちょうどよかった。
いま考えると、ギルドよりドブロを買っておけばよかったのだろうが、あのころは自分がスライドを中心に弾くようになるとは思っていなかった。カントリーブルースのフィンガーピッキングをマスターしようとステファン・グロスマンの本やテープを買って、よせばいいのに必死に練習していたのだった。それが自分に向いていない、ということが判るのにたいして時間はかからなかったが。
ところで、わたしの場合、試行錯誤のすえギターは寝かせてホールドしている。スライドバーは中指にはめるので、コードを押さえるのは左手の親指1本ということになり、当然ながらセブンスの音は省くことになる。セッションやってるときは誰かがセブンスの音を鳴らしてくれるからうまいこと曲は流れるんだけど、ソロは文字どおり強引な展開になる。Gチューニングだと5弦がルートになるから、指弾きでもフラットピックでも5弦を鳴らしてコードチエンジがはっきり判る感じを出すようにしている。
あと、マイナーにチューニングした場合はちょっと複雑になって、高音弦3本を手首を返して下から押さえ、メジャーキーやセブンスキーの音をちょろっと混ぜている。でもまあこれはギターテクニックという意味では初歩的なもので、つくづく自分は細かいギターテクニックには縁がないなあ、と思ってしまう。それでも自分の詩があるわけだから、それを3コードに乗せて唱うぶんにはなんの不足もない。少数ながら聴いてくれるひとたちもいて、そんなひとたちと過ごす時間は自分にとって限り無く貴重なものだ。
1968年に伊勢原の新星堂で買ったヤマハFG-110。FGシリーズのなかでもっとも安価で型もちいさく、いわゆるオーディトリアムというかたちをしている。バック&サイドはマホガニーだから軽いギターである。当時の値段は18,000円だった。考えてみてほしい、わたしの当時の給料は2万円くらいだったのだ。これを1生に1本のギターだと思い決めたのも無理はないでしょう?アコーステックは次のギルドを買うまでに17年をこのギターだけ使い続けた。
音色は明るく、低音は出ないけれど高音はけっこう伸びる。わたしはこのちいさなギターにレギュラーゲージをびんびんに張って使ったが、さすがにネックが順ぞりしてしまった。それをいいことにチョ−キングを多用したリックを弾いていたからますますネックがそってくる。そうしているうちに、他人がこのギターを弾くと弦高が高くてとてもコードが押さえられなくなってしまっていた。反面、わたしはこれで練習していたので指が鍛えられる。するとどうなるか。わたしが他人のギターを弾くとたちまち弦を切ってしまうのである。もともとピッキングがハードで、指板やトップを叩いたり、弦を手の腹でミュートしたり、ギターの扱いが荒い。先日もシゲちゃんのところで、かれのギターを貸してもらって遊んでいたが12弦ギターと6弦のフォークギターの両方の弦を切ってしまった。まったく困ったもんである。シゲちゃんは内心あきれているんじゃないか。このオヤジ、いったいなんのつもりだ、なんてね。
いま、このギターにはクラッシックギターの弦を張ってオープンにチューニングしてある。これでスライドを弾くと甘くせつない音がしてなかなかいいのだ。ゲインは落ちるけれど、夜中に静かに弾くのにあう。それにしてもハードな扱い方をしていたのに、壊れもせずにそばにいてくれる。ありがたい楽器である。思えば尾瀬にもかかえていったし、伊豆の海辺なら何度となく潮風に当てている。抱いて死ぬならこのギターだろう。
じつはこの3本以外にわが家にはあと2本ギターがある。弟のエレキベースと、わたしがゴミ処分場から拾ってきたクラッシックギター。この2本はわたしが金を出して買ったものではないのであえてとりあげなかった。お分かりのように、わたしはコレクターではないし、弾かないギターを持っていてもしょうがない、と思っている。とはいっても、経済的に余裕が生まれたらリゾネーターギターは1本欲しいなあ、と考えることがある。どうもそんなチャンスは訪れないようだから、わたしは夢のなかでだけあこがれのナショナル、デュオリアンに会いにいくしかない。どんな音がするんだろうなあ…自分が深南部のちいさな町にいって、小汚いショーウィンドウのなかに埃をかぶったそのギターに出会う瞬間を夢想する。(2004.2.26)

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