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わが歌は鉄のうた
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A
先日、かみさんが知人から珍しいものをもらってきた。にこにこして、わたしがよろこぶものだというから、いったいなんだと思ったら、これが昔なつかしいレコードプレーヤーだったのである。もちろんわたしはよろこんだ。それも単純によろこんだというより、いくぶんは複雑な気持ちだった。というのも、すでにレコードは我が家では聴かれることがないものであったし、CDや音楽ビデオがかつてのレコードの占めた位置にあって、そこからなにかが変化するとは考えていなかったからである。まあ、これはどこの家庭でも事情は同じことだろう。ただこの時点で、わたしにとってレコードプレーヤーというものが単になつかしさを越えた何か、になっていたことはたしかである。さっそくほこりをかぶっていたドーナッツ盤の数々が引き出されてくる。若い日が昨日のようによみがえる。針をおろすと泣きたくなるようなチープな音。CDにはないざらざら感。それにしてもぎりっとエッジの立った音の質感がたまらない。ああ、これだったんだ、と思う。さかのぼれば小学校の3、4年生だったのではなかろうか。友人の家でぺらぺらのソノシートから流れる映画音楽を聴いたのは。あれから茫々40年が過ぎ去ったのだ。その当時でも中学生くらいになるとレコードプレーヤーを持っている奴はずいぶん多くなる。かれらはラジオの深夜放送をよくチェックし、歌謡曲などには耳もくれず、ひたすら英米のヒットチャートから知識を得てはドーナッツ盤をちびちび集めていた。わたしはスプートニクス『霧のカレリア』が友人の持つモノラルのプレーヤーから流れてきたとき受けた衝撃をいまも忘れない。頼みこみ何度くりかえし聴かせてもらったことだろう。カスケーズ『悲しき雨音』も。そしてベンチャーズ。あの沸き立つようなエレキサウンドは田舎の貧しい家の少年をインスパイアしたのである。高校生になったわたしは休みになると土方仕事のアルバイトをやってギターを買った。レコードプレーヤーより楽器の方を選んだのである。ギターは全音楽器のガットギターで、教則本は例の「1週間で弾ける古賀メロディ」などという類いのものだった。ほかになかったのである。身近にいた連中もおおかたはそんなものだった。Dm,Am,E7の3コードを覚え、次いでCとFを覚えた。循環コードを覚えたころフォークソングが流行って、わたしは学校の仲間たちとにわかじたてのフォークグループを作って文化祭にでたりしたのだった。ああ、ほんとはエレキを弾きたかったのに。わたしがエレキギターを買ってアマチュアバンドのメンバーになったのは、高校を卒業して就職した神奈川県伊勢原市(当時は伊勢原町)にある金属機械の製造会社の独身寮にはいってからのことになる。80人からの独身男がひしめく新築5階建ての寮だった。高度成長がピークを迎えていたころだったから、仕事はきつく、寮生たちはよく集まっては飲んだくれたものである。その独身男たちのなかから5人がバンドに参加した。ひとりはわたし。たよりないリードギターとサイドボーカル。ベースに福岡出身で口八丁の新谷(しんや)。ドラムが北海道出身でいなせな男、松田。キーボードが無口でひょうきんな橋本。この18歳たちをまとめたのがひとつ年上の、R&B好きな村沢さんだった。かれは音楽的にひとつ抜けていて、歌もうまく、各パートの楽器の指導もやってくれた。ハンサムなひとで、スリムジーンズがよく似合っていたのが印象的だった。わたしは本当にたよりないリードギターで、練習のたびに音を外し、メンバーからは白い目でみられるわ、村沢さんからはきつい言葉を投げ付けられるわで、何度となく自信を失いかけたものだった。そのたびに課題曲をプレイヤーに乗せ、くりかえし聴いた。レーンとザ・リーキングス『ストップ・ザ・ミュージック』ローリングストーズ『ルビー・チューズディ』…。みんないまどうしているのだろう。松田は北海道から賀状をくれるが、他のメンバーの消息は知れない。みんな元気でいてくれ。そしてもしこのコーナーを目にしたらひさかたぶりに電話でもくれないか?(2001.1.15)

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