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わが歌は鉄のうた
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K

○おんがくエッセイ 日常生活ブルース

先日、相模原市にある個人加盟の労働組合の定期総会に招かれ、自作曲を披露するという機会をいただいた。というのも、毎週水曜日に相模原市役所前で行われる反基地アピール行動に、その組合の執行委員長となったOさんが参加されていて、何度か顔をあわせていたのだ。Oさんは鶴のように細長い女性で、シックな印象があるから、こちらはてっきりどこかの奥様かと思い込んでいた。それがなんと県央コミュニティ・ユニオンの関係者で、今般の総会では組合長に選出された方だったのだ。
総会は市民会館の会議室で行われた。わたしの参加は懇親会に移ってから。ピアニストのKYOUさんも誘っていたのだが、彼女はちゃんと総会の方にも参加していて、議事も傍聴したみたいだった。モノホンの芸術家は心構えがちがう。のんびりレセプションの開会まで外で待っていたわたしはなんだったのか。
さて、当日はクラッシックのギター奏者が最初に演奏。地域でギター教室を開いている若い人で、技術は確かだった。演奏が進むにつれ音に華やかさが増す。どんどん難しいテクニックが出てきて、それをあっさりとこなしながら音楽世界を形作る。端正で立派な演奏だった。判ってはいるけれど、このひとの後で自分がやるのかと考えるとひどく恥ずかしくなった。なにしろ自分は正反対の演奏だからだ。いつだったか、藤野の『Shu』でボーカリストのUAの後で唱う羽目になったことがあるが、あのときもできればこそこそ帰りたいくらい恥ずかしかったものだ。それでも、ここで逃げたら恥の上塗りと思って自分をなんとか奮い立たせ、マイクの前に立った。(おれはほんとはずうずうしいのか?)あのときと同じ心境である。こんなことなら人前で歌なんか唱うんじゃなかった、と後悔してもいまさら間に合わない。とりあえず、受けようが受けまいが飛ばしていこう、とギターをセットした。

「こんなことをやってますが、じつは30年勤め人やってました」と前振りする。伊勢原のアマダの名前を出したら、知っているひとがたくさんいた。「高校卒業して、10年あそこで職工やってましたよ」というと「労働者出身なんだな」と声もかかる。聴いているひとたちとの距離が縮まった感じがした。1曲、お遊びのやつをやってから、次はこの日のために用意していた曲をやった。「Get up UNION!」というタイトルで、G7のワンコードの曲だ。ありえないがオーティスになった気分で妄想めいっぱいにふっとばした。むちゃくちゃだった。途中でKYOUさんがピアニカのアドリブをいれてくれた。みんなに拳を突き上げるように求めながら、クレージーにやっていった。ここに集うひとたち、さまざまな理由で社会システムの中央から疎外されたひとたちに一瞬の開放感を持ってもらいたかった。だって境遇は自分も同じなのだ。そして、それは成功したのだろうか?人間はみんな歯車だ。しかし、よく油のまわる中央の歯車と、周辺のきしみながら廻る歯車とでは同じ歯車でもおおちがいだ。そこらへんのブルース感覚を分かち合いたかった。
ステージをKYOUさんに引き継いでもらう。KYOUさんはエレクトリックピアノに向かい、ビートルズナンバーをゆったりと奏でながら、静かな口調でごく身近な話題をささやくように話していく。話題は社会の底辺に生活しているひとたちの暮らしの種々相だ。それは聴いているひとたちの胸に直接届いて沁み入るようだった。いつもながら安定感のあるプロのステージである。
KYOUさんの演奏が終わると、残ったひとたちがひとりひとり近況を語ったりして、それが笑いのなかにある切実さだったり、生活のリアリティにあふれていて聞き続けるのが少しも苦にならなかった。
振り返って考えるのだが、こういう底辺のひとたちの思いを汲み上げる自主的な組織に招かれ、そこのテーマソングを自作自演できるなんて、アマチュアとしてはこのうえなく光栄なことだろう。むかし、わたしが育った炭坑で、労働組合が組合歌の歌詞を募集した。父の友人、池田康彦さん(故人)が作った詩が1等入選し、当時、新進作曲家として全国的に名を知られはじめていた作曲家のいずみたく(このひとも物故された)が曲をつけた。真夏の日射しの下を走る組合の宣伝カーから、この曲が流れてくると、あかるくさわやかなメロディに叙情的な歌詞がのってなんともいえず胸が熱くなったものである。
自分が音楽に対して望むものといえば、そういった人間のかなしみや、ささやかなよろこび、ちいさな願いに寄り添うこと、暮らしのかたわらで祈るように唱うこと、ただそれだけのことなのだ、といまさら思いを深くするのである。(2006.11.6)

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