■汚いものはみたくない、自分の身の回りさえきれいであればよい、いやなことは、なかったこと…というのは、新しい歴史教科書をつくる会とか、自由主義史観をうたうひとたちに共通したメンタリティだろう。南京大虐殺はなかった、とか、従軍慰安婦はなかった、とか、あれこれ非科学的な「資料(?)」を持ち出して強弁するけれど、根っこにある心情は子どもじみたものである。
わたしにはいま脅威にさらされているのは自然だけではなくて、戦後の歴史教育や民主主義が「不法投棄者」の脅威にさらされているように思える。こういうがさつで下品な精神があたかも日本的であるかのような装いで出てくるところに社会の退廃はあるのかもしれない。 |
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■ついでにいえば、戦後の歴史教育はただのリアルな認識の第1歩に過ぎない。自由主義史観をうたうひとたちはそれを自虐史観と揶揄する。思うにかれらは自虐の意味が判っていない。「大君のへにこそ死なめ、かえりみはせじ」天皇のために死ぬことこそ本望だ、という皇民化教育こそ自主的な自己実現を阻む自虐であって、くりかえすが、戦後民主主義教育の要であった社会科教育は現実認識獲得への歩みの始まりに過ぎないのだ。それをすら自虐史観というネーミングで葬ろうというのは戦略的には成功するかもしれないが、その果てにくるものは戦慄の未来ないし焼き直しの過去だろう。そんなものが人間にとって必要なのか?真の意味のマゾヒストたちよ。 |