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フィールドノートC
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 2001.3.22〜7.4

 ■地に恵まれて■
 春寒い日が続いていたある日、近所にノビルを引きにいったが、春の雪にやられて、おおかたはかじかんだように野辺にうずくまっていた。それでも掘り出すと丸まるとした鱗茎が強烈な香りとともに顔をだす。うれしい瞬間である。味噌をつけてかじると、土からじかに力をもらうような、そんなありがたみが口いっぱいにしみわたる。それと、アラゲキクラゲをたくさんみつけたので、そのからからに乾いたやつをかたっぱしから手籠にいれて持って帰った。水に浸けて二日ほどたったら、ぷよぷよの姿に戻り、いためものやらスープに大活躍である。中国産の業務用のキクラゲとは比較にならないくらい味が濃い。特に千切りにしたものを水から煮て取ったスープは、各種のダシと組み合わせると絶品といってよい。これも秋に発生したものが幾度かの雨で成長し、きびしい冬の寒さにさらされ、日光に育まれた野の味なればこそのものだろう。
 最近このあたりではニワトコの木がことごとく切られてしまい、春いちばんの芽吹きを楽しめず、がっかりしている。ようやくみつけた小型のニワトコにはか弱く少量の芽が出ていて、とても採集する気にはなれなかった。近刊のフィールド図鑑などをのぞくと、ニワトコの新芽は有毒視され、山菜あつかいは危険とされている。しかし、どうだろうか、お腹がゆるくなる程度のこと、それほど危険視するべきことなのか?漫画家の白土三平さんは著書のなかで、天ぷらにしてなかなかの味である、とおっしゃっている。わたしも賛成する。要は量を加減することで危惧されている問題は避けられるのではないだろうか。
 ところで、いま『日本食生活史』渡辺実・著 吉川弘文館を読んでいるが、ニワトコの葉が醤油造りに使われたということを知って驚いている。醤油造りの初期の過程で、大豆と大麦を煎ってついて粉にしたものを合わせ、板のうえにおき、ニワトコの葉をかぶせて寝かせて麹にするというのである。ニワトコという植物にはかねがねお世話になり、山路で出会うたびに親しさがこみあげるものだが、今回これを知って親しさが尊敬にかわったような気がする。そうだったんですか、1000年以上前からわたしたち日本人の暮らしのために役立ってくださっていたんですか、というぐあいである。思いもかけない実力の持ち主というのはニワトコに限らず人間にも当然いていい。身近にいるであろうそういうひとやものとの出合いと再発見は、人生のおおきなよろこびのひとつである。
 早春を彩る野の花のなかで、わたしが特に好きな花がある。それがエンゴサクの花で、なにか野辺で歌いさざめくようなそのたたずまいに、みかけるたびについ頬がゆるんでしまう。春はやい奥多摩の、標高が5〜600mくらいの山道でよくみかけて、そのたびにきらきらと陽光にはしゃぐ小学生たちをみるような気持ちになったものである。
 驚いたのは、このエンゴサクが身近なところに咲いているのを、つい最近知ったことだ。これまでの経験からして咲くのはわりに標高のある場所だと思い込んでいた。それがなんと団地からたいして離れていない場所に、数株が透明な春の陽を浴びていたのだ。土地のひとたちからみれば、なんだそんなものと笑われそうだが、こちらは思い入れがあるので、素直に感動してしまう。というのも、このか弱気な花の姿からは想像もつかないことだが、彼女たちはわたしたち人間よりもずっと永い時間、個体としてその生命体を維持してきたかもしれないし、また環境自体の破壊さえなければ、この先ずっと永い時間を野辺に生きていくだろうからである。それは地下茎が丈夫で壊れにくいことによる。つまり、わたしたち人間は見過ごしがちな野辺の花よりも短い個体としての生しか与えられていない、ということである。だが、わたしはその事実に、逆になにか崇高なものを感じるのだ。
 もちろんDNAレベルでは我われも不死であろう。だが個体の死は人間にとってつまるところいっかんの終わりである。せいぜいがところコンピュータのハードディスクに自己の脳の活動をせっせと記録するくらいしか永遠性に近付く道はない。それとて振り返るひとがいなければただのゴミ屑になる。それに比べればなんと野の花の純粋な美しさ。人間のはかない抵抗を哀れむように、彼女たちは春の光りのなかでひっそりと咲いている。
(盗掘の怖れがあるので場所は明示しないことにします)
 

なにかと忙しくしていたら季節はとうに夏である。HPの更新もままならないうちに、季節は移っていく。ここで写真をいちまい紹介してこの稿を閉じよう。
 右の写真は、3月に帰省した九州、佐賀の母の住む住宅の庭で写したトガリアミガサタケである。この春はなぜかアミガサタケに出会えたのはここと、藤野の借家の庭の二回だけだった。以前はそこここでたくさんみつけて残らずスープにしていたのだが、今年はほとんどお目にかかれず、採集できたにしても2〜3本。こう少なくては料理をする気にもなれない。
 そして雨なしの梅雨となり、山にはいるきっかけをつかめず、暑い日ばかりがじりじりと過ぎていく。 
                         

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