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フィールドノート(24)
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 2008.1.18

 ■恵み多き里山■
オオイチョウタケ。我が家のすぐ近くで採集したもの。今年はあまり量がなかった。10月中旬を過ぎての発生。
センブリ。11月上旬。ある程度のおおきさに育つと持ち去られる。山道沿いに生える薬草。


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晩秋の色。11月だというのにこの収穫。かつてないことである。
上から
キハツダケ、右にウズハツ、中央がアカモミタケ、そして下にコウタケ
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◆コウタケ裏面。くすんだこげ茶の針が無数に生えている。特有の香気は上等のダシの匂いに近いか。
キノコの愛好家、薬膳の研究家、日本料理の奥義を極めんとする料理人など、このコウタケを思う存分まな板に乗せたいと願うひとたちは少なくない、と思う。ところが簡単には手に入らない。里山から高山まで分布は広いけれど、商品価値の高さゆえ、たいがいの発生場所は荒らされてしまっている。とうぜんのこと、残る発生場所は限られている。よほどの幸運がなければ自然に生えているコウタケには遭遇できない。
よく山ツツジの下に生える、などというキノコ名人の口伝があったりするが、本当だろうか。わたしが採集したのは里山の北側斜面であり、篠竹がその場を覆い尽くそうとしているような所だった。藤野での採集は2度目である。かたわらを車が疾走するような地に貴重な素材が自然発生していることを、おそらく地元のひとも知らないだろう。

`08正月からの第2回『職人・技の祭展』に向けて、秋は仕事で忙しかった。ほとんど山歩きができず、つらかったが、思いあぐねてふと山にはいると、そこは晩秋の色であふれ、季節の最期の恵みがあちらこちらにやさしげな顔をのぞかせていた。
左の写真は
カノシタ。いつもふしぎに思うのは、これほどの優秀な食菌を誰も採集しない、ということだ。それこそ思い付き的に、衝動的に場に立ち会えばそこには撩乱の華、というわけだが、こういう幸運が毎年、自分にばかり訪れるといのは、じつは界隈でこのキノコを食卓に乗せているのが自分だけである、ということを示していないか。
カノシタ、理解者の少なさよ。フランス人はこいつに目がない、という。やつらは味を知っている。グロテスクなアミガサタケもへっちゃらだ。ナマコを食す日本人がカノシタに目を向けないのはがっかりだが、そのおかげでわたし自身は大量の収穫にありつく。ここはただよろこぶべきだろう。
コウモリタケ。ひとかかえはありそうな株。純白の傘裏をみると新鮮さが判る。小片をかじってみるが、特に味はない。通常、苦味があって食用にはならないとされているが、そのへんは個体差がありそうだ。篠竹の生い茂るなかに発生していること、太陽光線の直射をほとんど受けないこと、などが関係しているのかもしれない。
アジナシコウモリタケという灰色の菌種が存在し、それは食用になるというから、これも実験してみるか、と半ば本気で考えた。だがこのところの忙しさを思い、かつ、持っていく重さも考慮して今回は断念する。来年、というか今年の秋には再び出会えるだろうか。

ルリハツタケ。これまでにみたもっとも美しい個体群。希菌として扱う図鑑が多いものの、当地藤野ではありふれたキノコ、らしい。というのも写真家の三宅岳氏によれば牧野地区などでは例年、普通にみるという。
左は不明菌。上はサクラシメジ。このところの季節のずれ方は尋常ではない気がするほど。それでもこうやって毎年律儀に発生してくれるキノコのかすかに示す信号には耳を傾けていたい。
ヒラタケ。颱風のあとの倒木に生えていた。倒木は山道をふさぐように倒れているのだが全体として眺めると、サルノコシカケ科のキノコが優勢である。ヒラタケはさまざまなキノコに押されて、倒木のほんの一部分に発生しているにすぎない。しかし、個体としてはもっともおおきく、広げた傘がどこか堂々としてみえた。
ひとりの演劇人を思い出す。30年前、栽培シメジはヒラタケであって真正シメジではない、といったわたしに「おらほの百姓が嘘つきっていうだか」と怒ったひとである。かれの郷土愛を裏切った東北の栽培農家は猛省すべきだと思う。同時に、わたし自身の表現の仕方にも問題があったといまは率直に思える。ガヤさん、元気だろうか。
ウスムラサキシメジ。わりに少ない。まとまって生えないということもある。

ナラタケ。写真家の三宅岳ちゃんにもらった。音楽家で電気技師のシゲちゃんと山に入って、ごっそり収穫した、という。
ナラタケのカボス酢しぼりうまい!言うことなし。左の器はガラス作家のアキノ・ヨーコさんのもの。惜しいことにこのあと割ってしまった。(ばかな酔っぱらいだ…ったく)右の器は中野区に住んでいた頃、近所の幼稚園のバザーで10円で買ったもの。


11月も半ばを過ぎた頃、かみさんといっしょに近所を歩いた。散歩という感じで、あまり期待していなかったのだが、これが予想をくつがえす大収穫につながった。ひとつは、視力1.5を誇っていたのに、最近とみに老眼の傾向がきつくなって弱気になってきたかみさんが、ほんらいの「獲物」に対するカンを働かせて、キノコの大量発生をみつけだしたこと。籠を持たずに出たのに、これまたかみさんが持参していたスーパーの袋が役に立ち、収穫はあまさず家に持って帰ることができた。わたしとしても、これほど大量のアカモミタケの収穫は初めてのことで、ずいぶん興奮させられた。急斜面にあれほどたくさんの花が咲いたようなみごとな発生を目撃できたこと、そのどれもが新鮮な状態であり、ひとつひとつが大振りであったこと、などふりかえるとあらためて気持ちの昂りを覚える。
キノコは収穫したらその日のうちに洗浄して適切な保存処置を施さなければならない。面倒臭いのは確かだが生ものなのでこの点は怠けられないのだ。大量収穫のおかげで、わたしは3時間がところ台所で立ちっぱなしの作業となった。それでもその作業が苦痛というのではない。泥を落とすと表れるキノコの姿に、自然の状態でみたときの姿とはまた違った魅力を見い出すからだろう。いわばキノコのヌードというところだ。左の写真はアカモミタケとルリハツタケ、手前にウラベニホテイシメジの3種を洗ったもの。どこかなまめかしい自然の魅力を放っているではないか、と思うのはわたしだけであろうか。
`07年は猛暑の年だった。秋は長く、柿も栗も豊作で山の木の実も豊富なのか年が明けてもイノシシが山を降りてこない。今年はさて、どうなるのか。

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