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フィールドノートA
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 2000.10.3

■遠景と錯覚■
 朝から次女がなにやら騒いでいる。わたしを呼びにくる。五歳だが声は人一倍おおきい。ぱたぱたいう足音が玄関に踊りこんだ。公園にキノコがはえている、という。我が家のこどもたちは、わたしのキノコ好きをよく承知して、こういうことがあると洩れなく注進におよぶ。ありがたいのだが、あんまり声がでかいので、近所のてまえなんだか気恥ずかしい。仕事の手を休めて、デジカメをつかみながらドアの外にでると、彼女はどんぐりのような目をおおきく見開いてわたしをみるのだった。はやくはやくとせかす。童話のなかの小動物にでもせかされているような気になる。わたしは履きくたびれてぺろんぺろんになったサンダルをつっかけているのだが、思わずのめりそうになってしまう。公園に生えるキノコはほぼ特定できる。あわてることはないのだ。しかし、こどもの真剣さにつきあうのは大人の義務である。アスファルト舗装された団地の通路をわたしはぺったんぺったん走っていく。次女はこの間もおしゃべりをやめない。おねえちゃんと、あたしと、みさちゃんでみつけたんだよ…そうかそうか。
 そしてデジカメに納まったのが上のコムラサキシメジである。小型だが清潔でこころ休まる色彩。かてて加えて味がよく、歯切れも舌触りも申し分ない。公園には毎年でて、そのたびに我が家の菜になってくれる。今年は梅雨の時期と秋の始めの二度でたわけで、自然のできごととはいえごっちゃんなことであった。
 今年の秋の雨の多さ。これはキノコの大収穫が期待できるぞ、と早くから胸をふくらませていた。わたしの現在の仕事はこれといってうまくキリのつくものではないので、いつまでもだらだらと続けてしまう傾向があるが、9月30日早朝、仕事をほうり出し、思いきって籠を肩に裏山への道を登ってみた。気温は16度だったから念のため着古したマウンテンジャケットをはおっていく。デジカメはジャケットのサイドポケットに納まるからこういう場合まことに都合がいい。ちょっとまえまでのわたしなら、ミノルタのXEに重たい交換レンズを3本もかかえて三脚までかついで山にむかっていた。それがいまではこの堕落ぶりである。なにしろデジカメは現像の手間いらずで、Macにさっさと取り込めるのもいい。それと、野猿の群れに遭遇しない用心に首から笛をさげた。こいつを吹きふき、咳払いなどおりまぜつつにぎにぎしく早朝の山道をたどるのである。ちかごろこのへんでは猿をよくみかける。かなりの数の群れにいきなり出くわして双方あわてたというのも最近の経験である。まだ薄暗いころ、眠気も覚めやらず、わたしがしんねりむっつり登っていたのがわるかったのだ。こういうときは人間のほうが信号をだしてやらないといけない。
(写真はこの日の収穫。所要時間3時間。なぜか夏のキノコばかり)

 猿との遭遇が頭にあったので、先月の23〜24日に藤野芸術の家でおこなわれた「きのこぷらんにんぐ」という、在のアーティストたちが中心になった集いで笛を購入しておいたのだった。その木製の笛は、作曲家で演奏家で楽器も自作し、歌もうまけりゃエスニック料理もうまいというマルチな才能の持ち主のガイネさんが作ったものである。ひと目みて気に入ってしまった。古代と超未来が混ざりあった「スターウォーズ」に出てくる小物みたいなデザインにすっかり魅せられてしまったのである。音色もよく、明け方の山にりゅうりゅうとひびいた。遠くで猿たちの騒ぐ声がする。 
しばらく登ったら山肌から強いキノコのにおいがしてきた。大型のイグチの仲間がたくさん生えているのだ。どれも同定の難しいものばかりで、うかつには手が出せない。それらを横目にしながら、わたしがいつも採集の目安をつける地点に進んだ。このピークは多種類のキノコが季節に先駆けて生えるふしぎな場所である。だいたいここを探してなにもなければ山全体でもほとんど収穫は期待できない。それはこの6〜7年のあいだにわたしが体験的に学び取ったことである。
 さて、このピークでわたしがみたのはタマゴタケの群生だった。しばらくは美しさにみとれた。傘径が8cmくらいだから、梅雨時に生えるものの半分くらいの大きさである。虫がついておらず、自然美が極まっていた。幼菌もいくつか顔をのぞかせていて、これまた宝石のようにうつくしい。今夜はこいつのスープだ、うまいぞ!わたしはもう舌なめずりしている。スーパーの陳列棚という枠から一歩もはみださない食生活を当然とするひとたちには、たぶんこういうことは理解のほかだろう。しかし、ひとたび勇気をだしてタマゴタケのスープを味わってみれば、その複雑玄妙な味わいにきっと驚かれることだろう。

 いったん上りきってからコナラの林が続く急斜面をくだる。じつはコウタケを探しているのだ。この2年、空振りに終わっている。みつけたときにはいつもば腐れていて悔しい思いをさせられていた。いらいシーズンを迎えると早めはやめに足をむけるよう心掛けているのだが、仕事もあって思うにまかせない。この日、斜面に点々と生えていたのはコウタケではなくて、大形のイグチの仲間だった。そのなかでも同定が簡単なのは
アカヤマドリである。みかけはごついが味はいい。だいたい夏場にみることが多いのに、今年はどうなってるんだ、と思う。幸い幼菌ばかりで、虫もついておらず、喰い頃だったのでかたっぱしから採って籠にほうりこんだ。ゆでて煮汁ごとタッパーにいれ、冷凍保存しておくと冬場のシチューやカレーに重宝する。肉なしでも味が調うし、キノコそのものも身がしまっていて歯触り、舌触りともによい。ひとがそうであるように、ものもみかけにはよらないという好例だろう。
 盛夏のころは見通しが効かなかったのだが、ここへきてだいぶ隙間のできてきた樹間から遠景がかいまみえる。いっしゅん故郷の佐賀の山にそっくりな峰の連なりが出現して目をこすった。もちろん錯覚である。幻視といってもいい。ちょっと疲れているのかな、とひと休みした。カラ類が群れて飛んできて高い樹上で鳴き騒いでいる。もうすぐバードウォッチングにもいい季節となるのだ。

 10月にはいっても雨もよいの曇天が続く。上の娘がめずらしく早く学校から帰ってきたので、用事を済ませるついでに3人の子どもを乗っけて近所をドライブした。葛原(とづらはら)へいって神社まわりを散歩していると、たくさんのキノコが出ている。驚いたのはヤマドリタケモドキがあったこと。食菌の王様というひともいるくらいな、美味菌中の美味菌である。ムラサキヤマドリタケに比較すると比重が足りない、つまり肉に密度が足りないのだが、かみしめるとじわっとしみだしてくる甘さにおいて一歩優れているような気がする。傘は管孔をむきとって、斜めにそぎ切りにし、柄は直角にスライス。これをフライパンにバターをしいてさっと焼き、醤油をひとったらしじゅっと焦がせばちょいとした高級料理のできあがりだ。あいにく酒がないがまあそれもよし。
 今日は佐賀でひとり暮らしの母のもとへ、かみさんがみつくろった80歳の誕生祝いを送った。昼間の用事というのが宅急便屋へのそれで、夕方には逆にかみさんの故郷である沖縄からくさぐさのものが送られてきたりした。そういう親子や親族のつながりのなかで我われの一家も生きている。わたしもかみさんも故郷を遠く離れているが、3人の子どもたちは関東の子、藤野の子として育っている。そこまで考えてきて、ふと数日まえに山でみた錯覚の遠景を思い出した。幻視の風景だ。あれはいったいなんだったのかな、と思う。むかしのひとたちなら、こういった現象にどんな意味をみいだしたのだろう。いや、そうではなくて、単にくたびれているのかな?ひょっとすると、この季節には山ぜんたいにキノコ類がだす微妙な成分が漂っていて、ひとに幻視や幻聴をもたらすのかもしれない、なんてとこまで考えて、自分の思いつきをわらってしまった。    (2000.10.5)                         

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