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フィールドノートQ
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 2006.9.20

 ■日常のたのしさのなかに■



フジウスタケ。りっぱな毒キノコ。変な言い方だが。
不明菌。ムジナタケなどの仲間で無毒と思われる。傘裏がうつくしい藤紫色。
季節がよくなってきた。アカネが高山から降りてきて、畑のうえを群がり飛んでいる。
颱風が連れてきた雨で地上がぐっしょり濡れているところに、初めて目にするキノコがあった。宝山への登り口にあたる場所で、年中日影になっているところである。直感で無毒であるとは判るものの、これを試食するとなると別の勇気がいる。たぶんイタチタケやムジナタケ、ムササビタケなどの仲間だろう。あんがいうまいかもしれない。でも今回試食はやめておこうと思う。歳相応に内臓が弱っているはずだから。なにごとも若いときのようにはいかない。
fieldnote14で取り上げたオナラタケの例もある。場合によってはおならだけでは済まないかもしれないから。
子供たちを連れて山へはいる。みんないきいきと飛び回る。そして目ざとく各種のキノコをみつける。ウスヒラタケ、ムラサキアブラシメジモドキ、フウセンタケ、カバイロツルタケ…子供たちはかなりのキノコの名称に通じてきた。親をみて育つのだから、それは必然なのかもしれないが、こちらとしては意識的に働きかけた面もある。
村上龍の『13歳のハローワーク』を読んだとき思ったことだが、社会システムにうまく適合することだけが人生ではないし、そうあろうとしてもできないひともたくさんいる、ということがあった。できることならシステムからの脱落者をもあたたかく支えられる社会であってほしいし、そういう社会が不可能だと考える根拠はないと思う。つまりそういう意味で、わたしとしてはハローワークよりはキノコや植物に関する知識を深めることとか、いろんな本をたくさん読むこととか、イワシの手開きができるようになること、とか、そういう日常のたのしさのなかに子どもたちには生きてほしい、と願っている。むろん村上ドラエモンは企業の利益ではなくて、より多くの子どもたちの利益を、と考えてのことだろうとは思っている。
タマゴタケ。虫食いなしで完全形。

チャウロコタケ。こうして木は一生を終える。
ある特定のシステムの上では、いったいなんの役にたっているのか判らない、といったものはおそらく数限りなく存在することだろう。学問や科学技術が進むなかで、それらの役割がはっきりしてきて、予想をくつがえす恩恵を世にもたらし、人びとが瞠目する、という例もある。そのものの存在意義は恩恵の大小にはかかわらないと思うが、経済的利益中心でいくと無意味に思えるもののなかに、ひとを引き付けるなにかがあることは、じつは珍しくないのではないだろうか。
山を歩いていると心地よい初秋の風が吹いてくる。湿った土と落ち葉の匂いが心を落ちつかせてくれる。とかく、ひとに直接的な恩恵をもたらしたり、端的にいって食べられるキノコにばかり目がいくのだが、硬い木質のキノコたちが異彩を放つ瞬間があることもフィールドの無視しえない事実である。


ニガウリと空芯菜。どちらも栄養価が高い。笊に山盛り。

近所のOさんから野菜をどっさりいただいた。Oさんはご高齢でも休みなく働いて健康を維持されている方だ。八王子に住む娘さんたちが始終おとずれて、親子で広い畑にさまざまな野菜を作っておられる。我が家は季節ごとにこうしてもったいないほど頂戴するけれども、まとめてお礼を、とそのときどきに考えるだけで、ただ頂くばかりできてしまっている。
空芯菜は流行りの中国野菜である。かみさんによれば沖縄ではずっと以前から食べられていたという。今回我が家では茎と葉を分けて料理した。どちらもいったん茹でてからかかる。茎は3センチほどに切りそろえ、油揚げと炒め煮に。葉の方は胡麻醤油と酢で浸しものに。いずれも子どもたちも喜ぶメニューとなってくれた。
            
           (2006.9.20)
             

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