■連作短編
混沌市凡日録 8  一張羅姫    蒲原直樹

 混沌市の高齢者たちは元気である。暇も金もあるが、いろんな事情で運動が足りなくなる。足腰にガタが来ていたり心臓に障害があったり、ただ単に肥満だったりするからだ。そういう老人たちに安全に運動する場所を提供しようというのがスポーツジムというやつである。昔はそういう所に来るのは若い者と決まっていた。しかし少子高齢化は思いのほかに早く進んでいる。ジムの経営者は青年層や子どもだけではもはや経営が成り立たないことを知っている。彼らは既に高齢者向けのパンフレットを全戸配布したり、無

料招待券を乱発して市場開拓を進めている。温泉・グルメをからませ、あの手この手で高齢者を呼び込もうとする。今日も高齢者たちをスポーツジムへ運ぶ専用バスが駅前通りを走って行く。

 高井峰雄はその女性を「いっちょうら姫」と呼んでいた。彼女がいつ見ても同じ水着だったからだ。同じ高齢者にしても周囲の女性たちは決して毎日同じものは着てこない。第一水着は生地が痛むので激しく脱水することが出来ず、従って一晩では

乾かないから複数を使いまわすしかないのだ。
(彼女はたぶん、同じデザインの水着を数枚持っていてそれを取り替えて着ているんやろう……しかし?)
 気に入ったデザインだったからそればかり着ている、というのはわかる。しかしそれが一種類である必要はない。黒をベースに銀灰色のラインが入った水着は確かに渋いが、そのラインの色だけでも変えればいいのだ。すべて同じというのは偏屈すぎる。
(ワシとしては、彼女が貧乏で水着を一枚しか持っていない方が面白い

けどな……)
 峰雄が興味を持っているのはもちろん水着ではなく、その中身だ。たぶん六〇才を過ぎているだろうその『一張羅姫』は、昔はすごい美女だったことが容易に想像できた。しかも長い足と張りのあるヒップライン、くびれたウエストラインと適度にふくらんだバストラインはまるでモデルのようで、渋いデザインの水着が映えるのだ。
 そのくらいの女性だからライバルは多かった。何人かの男性が声をかけているのを見かけたことがあるが、『姫』は誰とも親しくしていなかった。自分のルックスに引け目のある

高井峰雄は彼女に声をかけることさえも出来なかった。だいたい彼は女性にもてたことがなく、見合い結婚はしたが妻が家にいたのは数ヶ月だけだった。それから数十年、こんなに気持ちが高ぶったことはなかった。

 ひょんな時にチャンスが来た。早朝覚醒してしまい、日課がどんどん前倒しになって午後の早い時間にジムに来た峰雄は、いつもより早い時間にプールを上がった。ロッカーのある二階に上がろうと階段を登っていくと、上から降りてくる人がいた。メガネがないと視界三〇センチの峰雄にも、そのきれいな足の持ち主が『姫』であること

が分かった。
峰雄の心臓がドキンと鳴った次の瞬間、思いがけないことが起こった。『姫』の足が滑ったのだ。
「あーれーッ!」
 彼女は素っ頓狂な声をあげて滑り落ちた。峰雄は体を低くしてその体を受け止めた。学生時代はラグビーのバックスを務めていた峰雄には簡単な芸当だった。柔らかい『姫』の体は案外ずっしりと重かったが、それを抱きしめている間は峰雄にとって至福の時間だった。
「失礼しました、どうも申し訳ありません、お怪我しませんでし

た?」
 『姫』はハスキーな声で峰雄を気遣った。
「大丈夫です、ただ……」
「ただ?」
「こんな時につけこむようで悪いですが、お茶でもつきあってください」
「ええ?」『姫』は驚いた様子だったが、すぐにニッコリ笑った。
「上がるまで待っていてくれます?……四時には出てきますので。それと、お茶よりはお酒がいいですね」
 高井峰雄はしばらく自分のでかした大ヒットに酔っていた。ロッカーでどうやって着替えたのか覚えておらず、いつの間に 四時になったのか分からなかった。ジムの入り口に立っている彼の前に『姫』が笑顔で近づ

いた。

 混沌駅前の「京樽」は時間が早いせいかガラガラだった。彼女は青いワンピースに花柄のスカーフを巻いていた。スイミングキャップに隠れて見えなかった頭髪は真っ白だったが、彫りの深い顔にはそれがプラチナブロンドのように見えた。彼女は日本酒、峰雄はビールで乾杯し、お互いの身元確認のような会話が始まった。
「定年になってから、ホンマにすることがなくなりまして」峰

雄は関西なまりを隠さずに言った。
「TT関連のボランティアなんぞやっていましたが、今度は医者に血糖値が高い、コレステロールがどうやこうや、みたいなこと言われましてなあ、仕方なしにジムに来ていますんや、ほんまに歳は取りたくないもんですわ」
「歳だなんて、高井さんはお若いですよ」
「エリーさんこそ……」
 『一張羅姫』はエリーと名乗った。本名かどうかはわからない。彼女は混沌駅の

隣りの南混沌駅から徒歩数分のマンションに住んでいるという。いろんな客商売をやっていたが数年前に引退したらしい。それ以上のことは分からなかった。彼女は聞き上手でこちらの話を聞き出すのはうまかったが、酒が入っても自分のことはあまり話さなかった。
「それじゃ、生き物が待っていますのでこれで失礼します」
 一時間ほどしてそ言われ、『姫』は帰って行った。勘定は峰雄が払った。


 それから彼らは時々京樽で軽く一杯やることが多くなった。何度目かの席で峰雄が、
「エリーさん、こんなボクとどうして付き合うてくれはるんですか?」
と尋ねると、『姫』はこう言った。
「あなたも鈍感ね……私があんな階段で滑ると思う?」
 『姫』は悪戯っぽい笑顔を見せて言った。
「……私が仕掛けたのよ。いつも私のことジーッと見てたくせ

に、いつまでたっても声をかけてこないんだから、しびれが切れちゃったの……わたし、あなたみたいに鬼瓦がくしゃみしたような顔が大好きなのよ」
 なんだ、そうだったのか!と、峰雄は大笑いした。その日、彼は『姫』をホテルに誘った。タクシーで五分の国道沿いにあるホテルで彼らは結ばれた。予想通り『姫』の主導でことはうまく進んだ。
 ホテルのベッドの上で峰雄は、自分が彼女を『一張羅姫』と呼んでいたことを話した。エリーは「ああ……それね」と苦しそうに応えた。
「年金暮らしだからね、そうそうファッションにこだわってもいられないの」
「じゃあ……」
「そう、一張羅だったのは本当よ。いいものを長く使うのがわたしのやり

方だから」
 そう言った後で彼女は、ケラケラッと笑った。
「なーんて、かっこつけてもダメね、いっちょうら水着の一張羅姫か、そりゃ当たってるわ」
「なあ、姫さま」ひとしきり笑って峰雄は慎重に言った。
「こうなってしもたから言うんやないけど、ワシにあんたの生活の面倒みさせてもらえんやろか……」
「あーーっ、こんな時間」
 エリーはホテルの

デジタル時計を見て叫んだ。
「生き物に餌をやんなきゃならないからもう帰るわ、その話はまたあとでね」
 彼女はバタバタと身支度し、ホテルを出て行った。
(生き物てなんや、犬や猫やないやろ……やっぱり男ちゃうんか?)峰雄の胸の奥に嫉妬の炎が燃え上がった。
 翌日、高井峰雄はジムへやって来たものの、中には入らず隣りのビルの陰に隠れた。そして『姫』が出てくるのを待って後

をつけた。彼女の言ったことに嘘はなく、『姫』は南混沌駅から商店街を抜け、信号を渡った国道沿いのマンションに入って行った。幸いマンションはオートロックではなかったので後を追って入り込むことが出来、エレベータもなかったので彼女の後について階段を登り、三階まで行くことが出来た。彼女がガチャガチャと鍵を開け、扉を開いたところで峰雄は階段室から飛び出した。
「あんた、なにすんの!」
 『姫』を押しのけるようにして中に入り、靴を脱ぎ捨てながら狭い廊下を走って峰雄は一番奥の部

屋のドアを開けた。まだ日差しのある窓辺の光りの中にベッドが横たわり、そこに異様な生き物がいた。それは口のようなものをバクバクと動かしているので生きていると分かるものの、人間の面影はなかった。
「それがわたしの亭主よ」後ろから『姫』が言った。「いや、亭主だった生き物……かな」
「どういうことや?」
 彼女はぽつりぽつりと物語った。長い客商売の結果彼女に残ったのは借金だけ

だった。それを帳消しにしてくれるという鬼瓦がびっくりしたような顔の客と形だけの結婚をした。その男は極道だった。あちこちに女を作り、毎晩酔っ払っては暴力を振るった。ある夜、迎えに来いと言われて夫の車で混沌市内の酒場に行くと、夫は彼女を愚図だの売女だのとののしり、殴りつけた。眠り込んだ夫を後部座席に乗せて走り出したが、彼女はつくづくいやになった。国道を走っているうちに心中を決心してガードレールに突っ込んだ。車は大破し、夫は外に投げ出され四肢損傷・顔面擦過傷・二〇数箇所の骨折を

した。しかし彼女はメルセデスの安全設計に守られてほとんど無傷だった。
「その結果がこれよ、命に別状ないから退院は出来た、でも、生きているだけ」
「そんなもののお守りで一生暮らすんか、あんたは?……それでええんか?」
「さあね、でもこうなったのはわたしの責任だもの、最後まで生かしてあげたいの。いわばこれが復讐を兼ねた私の趣味ね」
 高井峰雄にはもちろんそんな趣味を理解しなかった。だからそれきりジムにも行かなくなった。混沌市のとあるジムで、『一張羅姫』は生き物を思いながらまだ泳いでいるのだろう。